昔、インドにあったムガル帝国のアクバル皇帝にバーバルという道化師が仕えていました
バーバルは、とても頓智の利く賢い者で有名でした
日本で言えば一休さんのような方ですね
アクバル皇帝は、よくバーバルの知恵を試しては、喜んでいました
ある日、アクバル皇帝は、床に1本の線を引いてこう言いました
「バーバルよ、この線を短くしてみよ。ただし、どこも消してはならぬ!」
難しいお題を出して、知恵者のバーバルを試してみます
聞いていた家臣たちは、今回はきっとバーバルの負けに違いないと思います
どこも消さずに線を短くするなど、出来るわけが無いからです
ところがこの難題を、バーバルはいとも容易く解きました
いったいどうやったと思いますか?
バーバルは、その線の横に、もっと長い線を引いて見せたのです
すると比較する者が出来て、周りの者たちには、たしかに短くなったように見えました
このお話は、人間は比較によって物事を測る性質がある事を示しています
同じようなものが近くに二つあると、それを比べて価値判断を下すのです
商売などでも、この錯覚はよく使われています
たとえばテレビ通販などでは、はじめに定価などを伝えて、その後にもっと低い販売価格を伝えます
そうすると、はじめに高い値段を聞かされた視聴者は、いまならこんなに安く買えると思って、買いやすくなります
これがはじめから、販売価格を伝えていたら、それが安いか高いのか、比較対象が無いために、人は判断がつかずに、購入を控えるのです
そのためテレビ通販などでは、はじめに高い値段を言ってから、今回はそれより安い値段を言います
比較できる数値が出てきたため、それで安いか高いかを判断し、購入に繋がるわけです
このように人は、比較によって物事を判断しがちですが、それでは錯覚に陥って、真の正しい判断は出来なくなります
比較の中で生きていると、真実を見失ってしまいます
私たちが幸せを感じる時にも、ついつい他社との比較で考えてしまいます
他人よりもよい学校に入れたとか、良い会社に勤められた、出世が早かった、同僚より給料が高かった、よい所に住めた、高級な車に乗れた、等々、これらは他社との比較で、幸福を感じている状況です
しかしそれは、偽りの幸福でしかありません
比較して得られる幸福感は、移ろいやすく、やがては失われる、幻なのです
他者との比較では無く、自分自身の尺度で測った絶対的な幸福こそ、真の幸福です
比較の幸福は幻であり、それに執着していれば、苦しみを生じてきます
幻を追い求めてばかりいては、砂漠で陽炎を求める旅人のように、乾いて干からびるでしょう
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2 件のコメント:
比較し優位な時は気分良くいられても、そうでない場合は劣等感が生じます。
その劣等感は攻撃性に変わり、これを利用した一例が共産主義であると思います。
また比較による優位性であっても攻撃性に変わりやすい気がします。日本人だ、外国人だ、男だ、女だ、若者だ、年寄りだ、ワクチンだ、反ワクだと、自分と違う属性を持つ人々を攻撃している人はネットに沢山見られます。
そういう人は攻撃性の吐け口を求めているのか、恐れへの防衛反応なのかな…
小学生までは、個人の得意なことを尊重され、精神的に自由な学校生活を遅れていたのに、
中学生になると途端に比較的し選別されていく学校生活になります。
すべて高校受験のためのランク付けのためです。
内申点を取るために子どもたちは「先生のゆうことを聞くいいコ」にならなければいけません。
得意な事の自由研究学習など評価基準がないので評価できず、内申になりません。
この悪しき教育体制が変わらなければ、大人になっても、比較対象を求める、評価基準を求め続ける社会になるのです。
大人になったからと自分基準で心を入れ替えても、世間に認知されず、苦い経験をすることもあるでしょう。
それは、悪しき文科省からの教育、指導が自殺助長や希望を持てない人間を作り出している大元の原因だからだ。
早く解体してほしい。
体育、学校祭などの行事は学校でクラスメイトと存分にに楽しめばよいと思いますが、
もう、五教科はフリースクールで十分じゃないかと思うのです