心を汚してしまうもののなかに愚痴というものがあります
愚痴は自身の心を汚すとともに、聞いている他人の心をも汚してしまう性質があるのです
どうして人は愚痴を言うのかというと、そこには愛の不足を感じているからです
サラリーマンであれば、自分がこれだけ会社に尽くしているのに、会社はそれほど自分を評価してくれないとか、理解してくれないという思いがあるでしょう
主婦の方であれば、ご自身がこれだけ家事や育児を頑張っているのに、夫は理解してくれないとか、それほど愛してくれいていないという思いがあったりします
いずれにしても、そこには愛の不足を感じる思いがあります
自分が尽くしたほどには、相手は自分の事を愛してくれないと感じるから、そこに愚痴が生じてきます
そして不幸な自分というのを、他人から認めてもらい、可哀そうだと愛情を得たいので愚痴が出てきます
これだけ自分はやったのに、不幸な境遇にあると、同情してもらいたい思いがあります
しかしそこには、因果の理法を見失った哀れさもあるのです
お釈迦様は、不幸の原因は、過去に自分が行った行為や思いの結果だと述べています
自分の今置かれている環境は、過去に蒔いた種を刈り取っているに過ぎないと説いているのです
ですので、今の境遇というのは、誰のせいでもなく、自分自身の過去の思いと行いの結果だという事です
他人や環境、社会のせいではなく、自分自身が原因で今の状況が出来ているのです
愚痴を言う人というのは、どうしても他人のせいや環境のせい、政治のせいで自分は報われず、不幸な境遇に置かれていると考えます
自分が原因でそうなったと考えれば、愚痴は出る隙はありません
何かしら他人や周りのせいだという思いがあるから、愚痴も出てきます
しかし、愚痴というのは、自分の心を汚してしまうとともに、聞いている人の心をも汚してしまう恐れがあるのです
本人は愚痴を言ってスッキリするのでしょうが、聞かされた方は、ゴミを置いていかれたようなものなのです
誰でも他人が来てゴミを置いていったら嫌でしょう
そのように愚痴を言って帰っていく人というのは、自分のゴミをわざわざ他人の敷地の中に捨てに来るようなものです
それれ自分はゴミが減ってスッキリしたと思うかもしれませんが、他人にごみを押し付けているようなものなのです
そのため愚痴というのは、自身の霊性を汚すとともに、他人の心も汚してしまう行為となります
そうなると光の世界から、守護霊さまなどの加護の光が降りそそごうとしても、心の曇りによってそれを防いでしまう事になるのです
心の汚れというのは、霊的に光を防いでしまう曇りとなってしまうので、加護の光も遠ざかってしまいます
ですので、愚痴の心を抑えて、自分の中に反省する部分を見つけ、改めていこうとするのが、人生を好転させるうえで大切です
愚痴が出そうになったら、自分が今、ゴミを吐き出そうとしていると思いとどまるべきです
そうして綺麗な心となって、加護の光を得られる自分となっていく事です
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