2022年8月23日火曜日

理性の限界と神様の存在 カント哲学


ドイツの観念論哲学者として有名な、イマヌエル・カントという人がいます

彼の哲学は難解としても有名で、私も高校の頃に代表作の『純粋理性批判』を読んだことがあるのですが、はじめは読み進めるのに大変な時間がかかったのを覚えています

専門的な用語については、文章を読み進めていって、おそらくこの言葉の意味は、こうした事を指しているのだろうと推測し、少しづつ分かっては、また初めの方に戻って読み直さなければ、意味がつかめない為、とても時間がかかるのです

しかも本自体も大変なページ数ですので、これを読破するとなると、たいへんな時間を浪費してしまいます

現代の若者では、ほぼ読めないのではないかとも思われます

要約か入門書などで満足するしかないかと思います

前置きが長くなりましたが、要するにカントが言いたかったことを、簡単に説明すると、「人間の理性には限界があって、それを超えたものは人間には分からないのだ」と言いたいのです

人間が世界を認識するには、もともと人間に備わった思考の枠組みのようなものがあって、それに当てはめて世界をとらえているのだと言います

つまり、人間は物自体を認識しているのではなく、人間の持っている枠組みの中でしか、世界を自覚することは出来ないのです

たとえば、色彩についていえば、世界には大きく分けて七色の色彩があるとされています

しかし、それらは人間の目が認識できる、色の波長の光だけを、見ているにすぎません

それ以外にも、赤の外には赤外線の領域が広がっていますし、紫の先には、紫外線の領域が広がっています

広大な光の領域が広がっているわけですが、人間の目には、赤から紫までの七色しか認識できないのです

この例えが適切かわかりませんが、そのように人間の理性には限界があって、それを超えた物に関しては、認識することは出来ないのです

世界の実相についても、本当は私たちの認識とは全く違ったものかもしれませんが、私たちにはそれが判らないわけです

そのようにカントは人間の理性の限界を「純粋理性批判」という本で述べているわけです

そこで問題となるのが、では、神様も私たちの理性では存在を証明することは出来ないとして、故に神は存在しないのだという理解が広まった点があります

カント以降には、哲学的に無神論の流れが出てきたと言えます

人間の理性には限界があって、神様の存在を証明することも不可能だと明らかにしたことが、イコール、神様は存在しない事のようにされていったのです

しかし、カント自身は神の存在を否定したわけではありませんでした

「純粋理性批判」に続く彼の著書で「実践理性批判」というものがあります

その書でカントは「人間は最高善を求める存在だ」としています

そして”最高善”という境地に人間が到達するには、今世では無理な事も分かっていました

そのため、「魂は不死なはずであり、それゆえに人は、最高善に到達することが出来ます」

さらに「神様の働きがなければ、そうした境地に導かれるはずが無い」として、合理的に神様の存在は証明出来ませんが、推測し存在するはずだと主張していたわけです

このカント哲学によって、結果的には無神論が広まりを見せたと思います

人間の理性では神は認識できない、それゆへ神は存在しないのだと短絡的に考えられてきました

しかし、カントの考えからすると、道徳的問題を突き詰めると、神の存在や、魂の不死について認めざるを得ないのです

魂や神が存在しないとなると、人間は機械と同様な存在であり、その尊厳も生じてこない事になります

今日は少し難しいですが、なるべく分かりやすく、カント哲学についてお話ししてみました

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

同じ時代にユダヤ人のモーゼス•メンデルスゾーンがいましたね。

モーゼス•メンデルスゾーンがカントの講演会に行くと、猫背のユダヤ人が居るということで大騒ぎになったり、

子供と夕涼みに街を歩いていると「ユダ公、ユダ公」と悪ガキ達に後ろ指をさされたそうです。

モーゼス•メンデルスゾーンは絹織物などの商人をして生計をたてておりましたが、哲学や数学や神学の研究もしており、ユダヤ教徒でありながら、神が何処にでもおることを主張したり、宗教の分断を嘆いていたようです。

息子のアブラハム•メンデルスゾーンの行く末を心配しておりましたが、アブラハムは銀行家になり、裕福になりましたが、ユダヤ人にはユダヤ人なりの言い分があって、農地も持てない者にとっては商人か銀行家になるしかなかったと嘆いておりますね。

アブラハム•メンデルスゾーンの子供、フェリックス•メンデルスゾーンは大作曲家になりましたね。

フェリックス•メンデルスゾーンがピアノを弾くと聴衆の脳天から電気が入ると騒然となった逸話がありますね。

トランス状態のエドガー・ケイシーにどんな音楽を聴いたら良いのかを尋ねた方がいて、メンデルスゾーンの「春の歌」だと解答してる位ですから、ただ者ではなかったようです。

長々と記入しておりますが、モーゼスのような哲学者に惹かれますし、哲学とは本来難しいもの、読めないものであってはいけない、と私は考えておりまして、無神論者になればなるほど、難解な文章を使って、おれは凄いのだと言いたいだけのような気がしております。

けいむたん さんのコメント...

なるほど、現代人の無知蒙昧な行動はこれに起因すると考えると合点がいきます。
目に見えるモノだけが総て、だから死んだらそれで終わりと・・・。それの延長線上に、無神論に至り、挙句は唯物論へと辿り着くのですね。感嘆です。
そう考えると、現代人には至れない境地ですので、愛と良心をもって素晴らしい社会を築き上げるのは、当分の間は困難でしょう。
自分からできる事は、せめて、今生だけでも利他の精神を維持して、奉仕心を忘れない様に心がけたいですね。ご先祖様や神々様に敬意と感謝を込めて。

匿名 さんのコメント...

最高善に向かおうとするその精神性・それに近づこうと実際に行動することは、私たちに神が内在するからであり、その精神に目覚めた人・近づことを実行している人にしか、神の存在を実感できないのも無理はないのかもしれません。

最高善とは、いったい何なのか。

「あなたは透き通った川の流れになるようにただ勤めればよいのです
透明な心にこそ、答えは浮き出てくるのです」

この境地は一つの答えである気がしますね。カントのいうとおり理性で測りきれるものではないですね。

匿名 さんのコメント...

世界を牛耳りたい者たちにとって神や魂は存在しないとしている方が都合がよいのだと思いました。もしかすると歴史や事実も捻じ曲げられていることなど、そういうことはたくさんあるのかもしれません。
私が自分の最高善を意識する時はどんな時でしょうか?
例えば私の場合光が込められている文章を読むと心が反応します。そして今こう露わに書くと不思議なことに涙が出そうになります。
他には、先生がTwitterであげてくださる過去記事を読みます。過去に自分が出したコメントが載っている時もあります。先日は自分の出したコメントなのですが、純粋さというかピュアな気持ちが伝わってきてグッときました(おかしな話ですが)
自分なのですが、もしかすると違う自分。そこには真実の最高の良きものが込められる時もある。それは誰でも望みさえすれば近づけることができるのだと思います。
そして世の中に力を与え良い影響を与えた方たちは皆さん仰ることは驚くほど本当に同じだと感じます。最高善 素敵な言葉ですね。
ありがとうございました。

今後のコメントは X(旧Twitter)にてお待ちしております。