人間には愛の心が宿っています
それは人に教えられたからではなく、生まれつきに備わっているものなのです
愛のエネルギーそのものは、宇宙を成り立たしめる物理的なエネルギーそのものであるという話をしたこともあります
この宇宙そのものが愛のエネルギーによって生まれ、そして今も育まれています
私たち人間にもその愛のエネルギーが内包しており、それが私たち人間が神仏の子である証でもあるのです
その愛のエネルギーの発露には、いろんな段階があります
まず人間は肉体に宿って地球に生まれてきますが、その乗り物である肉体を守るために、自己保存本能が備わります
自己保存本能が無ければ、人は容易に肉体を放棄し、この世にとどまる人がいなくなるからです
そのためすべての人が生まれ持ってより自己保存欲を持ちます
この自己保存欲というのは、自己への愛の形でもあります
それは決して悪いものでは無くて、本来は神仏の子としての自分を愛するエネルギーなのです
人間はまず生まれてきてから誰しも自己への愛を持って生まれます
それがやがて自分のみを良かれとする我欲に転じる事にもなります
自己への愛は正しいものですが、それが他人を害してでも、何とか自分の利益を得ようとか、自分だけ助かろうという我欲になってくると、ネガティブに転じます
そのように初歩的な段階では、この自己保存欲からくる自己愛の用い方で、天国的な愛か、地獄的な愛なのかが分かれてきます
そして人間は、自己愛から親しい者への愛へと、愛の範囲を広げます
今まで自分だけを愛した思いから、両親や兄弟などの家族や、結婚相手や自分の子供など、親しい者への愛が出てきます
自分の事よりも家族を優先したり、家族のために何かしてあげようとする思いが出てきます
それが親しい者への愛であり、人間は成長するにつけて、そうした愛が出てきます
それは自己愛の範囲が広まって、もう少し輪が大きくなり、身近な者への愛へと拡大してきたことを意味します
はじめは小さな輪で、その輪には自分しか入れなかったのが、輪が大きくなって家族などが入るようになります
その時にも、相手を思っての愛なのか、それとも愛しているつもりで自分の思いのままに動かそうとしたり、執着して縛ることを愛と勘違いすることもあります
このように使い方に間違いも出てきて、それによって良いものと悪いものとに分かれて行きますが、輪は次第に大きくなります
さらに輪が広がっていくと、家族だけではなく、隣近所や知人など、身近な知り合いにも愛は広まりを見せます
知り合いのために何かをしてあげ、苦労をかったり、何かを与えるなどです
知人が喜ぶことをしてあげる事が、愛することとなります
そのようにはじめは自分だけが入るくらいの小さな輪だったのが、家族への愛の輪に広がって、さらに広まると知人への愛になっていきます
それがさらに広まると、地元や郷土愛になっていきます
地元のために何かしたいとか、愛する郷土のために何かをするというのは、愛の輪がさらに広まった姿です
それがさらに広まりを見せると、愛国心へと繋がっていきます
日本のために何かしたいと思うのも、愛国心というものです
さらに広まればそれが人類愛にもなり、地球愛にもなっていきます
しかし、そのように広まりを見せる愛ではありますが、途中が欠如していて、大きな愛ばかりでよいというものでもありません
家族や知人への愛が無くして、国家への愛だけ述べている者には、間違いもありますし、自己愛を失って、他者への愛だけに生きる者も偏っています
人類愛や世界全体の事を考えながら、自分の国の事をないがしろにしているもの間違っています
各々の段階を歩んでこそ、真に精神は大きな広まりを見せます
愛の輪が大きくなるほどに、その人の精神は大きくなります
それは各々の段階が正しく整い、広まってこそ、成し遂げられるものです
3 件のコメント:
愛を考えると、独り身には限界も感じますね。
ただ、今は独身が多すぎるので、地域社会、果てには国家が歪になるのも逆説的に頷けます。
自己満足の愛国心とかもありそうですね。
私は突き放す愛を最近学び中だと思います(主に子育ての時です)
人生の転機など色々あり人類皆兄弟的な愛の境地だったのですが、愛溢れる人だと実際の人間関係など温度差を感じ、引かれる時もありますし、自分の本音言いますと寂しい人だから他人に優しくしていると思われてもなんかなぁ〜と感じる自分もいます。
私はそこのさじ加減も今学び中だと思います。
愛情と愛の違いをたまに思います。
「神の愛」と言っても「神の愛情」とは言わないところが面白いです。この世的視点とそうでない視点の違いなのかな。