2021年11月12日金曜日

愛と性愛(煩悩)の違い


世間では愛と性愛を混同してしまったり、誤解している事が多いと思います

そのため、愛に生きたと思っていたら、実は性愛=煩悩に生きていたという間違いが生じます

愛とは、相手の幸せを願い、実際に幸せのために行動することです

そこには、自分への見返りとか、直接の報いを期待してなされるのではありません

与えきりの行為であり、無償の思いです

一方で、性愛とはなんでしょうか

性愛は、肉体に伴った欲望であり、肉欲によって異性(あるいは同性)を求めるような欲です

動物によくみられるもので、子孫を残すためのパートナーを探すために、動物にはこの性愛が本能として宿っています

この性愛そのものが悪いのではありませんが、間違うと悪に転じる事があります

たとえば妻子ある人を好きになって、その人と結ばれるとか、夫のいる女性と関係を結んだとします

すると、当人同士は愛し合っていると思って、それでいいと思っているかも知れませんが、周りに不幸の種を撒きます

パートナーに対して不誠実な行為をする事で、結果的に周りを不幸にしているのです

そのように性愛のみを追い求めた場合には、周りに不幸を招くことになり、自身も不幸になっていきます

性愛における善悪の分かれ目は、やはり周囲を不幸にするかどうかではないでしょうか

その関係が周囲に知られたとして、それが不幸を呼んでしまうものであれば、やはり悪に転じる事が多いと思います

逆に愛というものは、周囲を幸せにしていくものだと思います

「自分たちだけが幸せになればいい」と考えて、周りに不幸の種を撒いているのは真実の愛ではなく、性愛という煩悩によるものでしょう

私たちはその違いを判らないといけないと思います

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6 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

男性は女性よりどちらかというとこの動物的な本能である性愛が強いようで最近では芸能人の不倫だのなんだのと騒がれることが多いですね。
一番純粋な愛は親が子供を思うような愛、または友情の愛で、性愛を伴う恋愛はそれらより純度のランクが下なんじゃないかといつも思います。

ゆどうふ さんのコメント...

不倫や略奪愛をやたら美化して描いた小説・漫画・ドラマなどがありますが、
いくら「一見魅力的風」に作品に仕上がったモノであっても、どれからも色情的なオーラが漂っていて、天国的な美をまったく感じません。
こういうのを持て囃して理由をつけて正当化する現代の風潮には、異常さを感じますし、
そういうのを作って評価されているクリエイターには、正直、哀れみすら覚えます。
自分の作品が世の中を性的に乱しているという罪悪感は彼等にはないのでしょうか???
地上での活動を終えて旅立った後、決していい世界になど還れないでしょうね😢😢😢😢

匿名 さんのコメント...

愛 あい という日本語は元々が性の煩悩や執着を表現するものだったことが「愛」に不純なものが混じる一因なのかも?と思います。
愛の中身は慈悲、親切、寛容などでしょう。性欲や恋愛こそを愛だと思っている現代人がどれほど多いことか。世の中はそのような程度の低いものや執着が愛だと煽り立てる情報が多すぎる。
愛という言葉が性欲の言い訳に使われていることに怒りを覚えます。

匿名 さんのコメント...

この視点で見ると、一連のモヤモヤがスパッと晴れますね。
知恵のお言葉のありがたさを感じました。
いまは錐揉み飛行のさなかなので、お二人の耳にはストレートに入らないでしょうが、遠くない未来に、実感されることと思います。
後味が悪いものとなりましたが、多くの人々にとって他山の石となったのではないでしょうか。
ありがとうございました。

匿名 さんのコメント...

ある昭和の宗教家が言っておりましたが、親鸞和尚さんはお釈迦様の弟子、アーナンの生まれ変わりだとか。

信じ難い話でしょうが、私が考えております親鸞和尚さんは大変正直な人間くさい方だと信じております。

私は浄土宗、浄土真宗の方達にもの申すつもりなど全くないのですが、親鸞和尚さんが人々から慕われるのは修行者になりきれず、性慾を断ち切れず、修行僧なのに結婚までしてしまったその正直さに人々はほっとするのではないでしょうか。

浄土(天国)の存在を心から信じていて、浄土に生まれ変わりたいとの思いだけは誰よも強かったし、自分のような破戒者も助けて下さいと阿弥陀様に願う親鸞和尚さん。

地獄の存在を信じていても悪人は地獄に落ちるぞ、などとは親鸞和尚さんはとても口には出せない。

私はあるチャネラーの方からアーナンのことを聞いたことがあります。

チャネリングでお釈迦様が言うのです。

アーナンは大変美しい姿の修行僧だった。

アーナンは愛と情を混同していた。

アーナンは女性に言い寄られるとその女性の願いにかなってあげることが愛だと勘違いしていた。

情には駆け引きがあり、選り好みがあり、好き嫌いがあり、性慾がある。

愛は駆け引きがなく、選ばず、全てを愛する。

アーナンはお釈迦様の弟子でありながら女性の情欲に流され、お釈迦様は破門している。

お釈迦様の死を看取ってはいても、その後もお釈迦様の弟子のマハーカショーはアーナンに厳しく接していたとか。


匿名 さんのコメント...

ばれなきゃいいと思っている方々、多い気がします。
この世の誰かにバレなくとも、見えない存在にはバレバレと思いますし、あの世に帰れば、自分のしてきた事をすべて見せられ、その評価?によって、あの世での無数にあるステージ(階級?)のどこへ行くかが決まるのだとか。
肉体が滅びようとも魂は永遠なので、死んでも逃げられないのだそうです。
いつかは、自分のしてきた事のつけを払う日が来るのでしょうね。
そう思ったら、この世でつけを払えたなら、逆にラッキーなのかもしれないとさえ、思ったりもします。
余談ですが、昔流行ったアニメの歌詞に、
♪~ああ 男の人っていくつも愛を持っているのね~♪
というのがありまして、個人的には、音楽は好きですが、歌詞には、それは愛じゃないでしょう?、ただの欲望!なんじゃない?!と、ひとりつっこんでいました。

今後のコメントは X(旧Twitter)にてお待ちしております。