一生懸命に努力しても、それが報われずに、成果として出ない事もあります
一方で、あまり努力をしていないのに、易々と成果を手にする人もいます
こうした出来事を見て、世の中は不公平ではないかと嘆くかも知れません
自分は一生懸命に努力したのにダメで、ある人は簡単にこなせるのを見て、おかしいと感じる事もあるでしょう
一生懸命に勉強したり、運動したとしても、良い成績が残せない事もあり、他の人には努力が少なくても良い成績を出す人もいます
このような経験から、世の中は努力しても、それが正当に評価されたり、結果としてでないではないかと嘆く場合もあります
ですがこれは、今世の短いスパンだけを見ているから、行いが結果に結びつかないように感じるのです
人間の魂は、永遠の時を生きており、行った事の結果は、必ずしもすぐに現れるのではなく、長い時を経て出てくる場合があります
過去世の結果が今世に現れ、今世の行為が、未来世に報いとして出てきます
人間は、わずかな今世のほんの一瞬だけを見ているため、結果が現れないと嘆くことになります
荘子が老子の言葉として伝えたもので『人生天地之間、若白駒之過郤、忽然而已』というものがあります
これは以下のような意味です
『人間がこの天地の間で生をうけるのは、(人生天地之間)
白い馬が戸のすき間を走りすぎるように、(若白駒之過郤)
ほんの束の間に過ぎない。(忽然而已)』
私たちの地球での人生は長いようであって、実相からするとほんの一瞬に過ぎません
このつかの間の今世だけでは、すべての報いが現れることは無いのです
もちろん、今世で現れる部分もありますが、それがすべてではありません
努力少なく、成果を手にしたものは、過去世から積んでいた陰徳を積み崩しているかも知れません
また努力を積んでもなかなか成果が出ない人は、陰徳を積み重ねていて、見えない世界に積まれているのです
たとえて見れば、努力は銀行の貯金のようなものであり、少しづつ貯めて行けば、やがて大きな財になって、必要とする時に降ろせますが、必要な額がたまっていないと、下せません
車が買いたいと思って、銀行に行って百万円を降ろそうとしても、まだそこまで溜まっていなければ、降ろすことは出来ないでしょう
これは今世ではなく、過去世から預金口座は引き継がれているようなものです
過去世で積んでいた徳で、溜まった分を今世に使う方もいるでしょう
ですが努力や徳を積んでいなければ、次第に減っていくだけになります
今世では下せる額が少なく、報いがなかなか現れないとしても、それは無駄ではなくて、少しづつ貯まっていっています
天の倉に宝を積む、天に貯金するのは、少しづつしか出来ません
そして積み立てた分は、いずれは使う事が出来ます
1 件のコメント:
「天の倉に富を積む」
「天の倉に徳を積む」
どちらも希望の原理となりますよね。
その倉に積んだ富や徳を、周りの人たちに善き影響を与えられるように使っていけたら、どれほど嬉しくて幸せになるんだろう?と思っています~☆