人間は愛を求めます
子どもは親からの愛を求め、恋人同氏は互いの愛を求めます
人々から称賛を求めたり、褒められる事、憧れを持たれる事、頭を下げられる事を求めるのは、いずれも愛を求める思いです
人は何故、愛を求めるのでしょう
愛を得る事で、自分の中に何かが満ちていくのを感じるからでしょう
それは霊的なエナルギーであり、人は愛を受け取ることで、満たされていきます
普段の私たちは、何かしら満たされない思いを持ち続けており、それは愛のエネルギーが足りない事を感じているのです
愛のエネルギーが不足していると感じると、人は周りから必死に愛を得ようとして、色んなことをします
子どもが熱を出して、親の関心をひく場合にも、愛を求めるがゆえに現れる事もあります
また子供が問題行動を起こしてしまう裏にも、大人たちの注目を集めたい、愛を得たいという思いの裏返しの場合があります
大人になっても、目立つ行動をして、人々から注目を集めようとするのも、愛を奪い取りたいからです
そのように、人は他人からの愛を求めています
愛は単なる抽象的な概念ではなくて、霊的エネルギーであり、それを人は求めているのです
愛のエネルギーが不足していると、人は様々な誤作動を起こしてしまいます
愛の不足は、心の傷になってしまいます
その心の傷を癒すものは、愛によるのです
愛のエネルギーが、傷ついた心を癒してくれます
そのため人は、他人から愛を求めて生きるのですが、人から得ようとすればするほど、苦しみも生じてきます
思い通りに得られなかったり、またその人が得られたとしても、その結果、他の方に渡る分が不足してしまいます
このように奪い合いになってくると、この世に苦しみを生みだしていくのです
愛は正しく用いれば、人々の心を癒し、慰める力となりますが、用法を誤ると、苦しみを生みだす元にもなります
愛が幸福を生み出すためには、与えるものでなくてはいけません
人々から愛を求め、執着することで苦しみへと転じていきます
二宮尊徳はその事を「たらいの水」の話として説きました
たらいに入った水は、自分の方に引き寄せようとすると、向うの方に逃げて行ってしまいます
逆に相手にあげようと思って押し出してやると、自分の方に戻ってくるというものです
得よう得ようとして、必死に自分の方に引っ張っていくと、愛のエネルギーは逃げて行ってしまいます
反対に、相手にあげようとして自分から押し出していくと、いつの前に自分へと帰ってきます
このように愛のエネルギーは逆の動きをします
自分の事ばかり考えて、引っ張ってばかりだと、たらいの中の水のように逃げて行ってしまいます
相手に与えようとして、押し出していると、自分の方に戻ってきます
愛のエネルギーも、周期から奪おうとしてばかりいると、次第にその人の元から逃げていってしまいます
かえって周りの人に与えていると、次第に自分に返ってくる量が増えてきます
不思議ですが、愛のエネルギーにはそうした逆説的な性質があります
これを正しく使うか、それとも間違った使い方をするかで、幸不幸は大きく分かれていきます
1 件のコメント:
たらいもよくよく見ると、高さがありますね。
なので、水を循環させると右回りにも左回りにも縦回りにもなりますね。
循環させることが難しいほど愛が枯渇している場合は、自分に愛を注ぐ必要があることを意味しています。
自分に愛を注ぎ、それを受け入れて循環する様になれば、自然とその水の流れは大きくなっていくでしょう。