人は死んで終わりではありません
たとえ肉体は滅んだとしても、魂はあの世の世界である霊界で永遠に生き続けるのです
そして霊界ではすべての人が同じ世界に帰るのではなく、人によって様々な世界に別れて暮らすのです
霊界では魂の成長に応じ、その人の霊的な成長の度合いによって、幾つもの階層に別れて暮らします
地上の人間で言えば、幼稚園でお遊戯を習う段階があり、小学校で読み書きや社会、数学などを習う段階があり、その上に中学、高校があり、さらに大学へと進みます
いろんな学年があるように、その人の魂のレベルに応じて、同じ階層に住むものが決ってきます
魂のレベルというのは、その人がどれだけ霊性や知性、道徳などを備え、他者へのいたわりのこころを持つようになったかが量られます
地上に生きていた時に、どれだけ人々のお役に立ち、愛を与えてきたのか?その質と量がはかられます
そして本人の心境がどれだけ澄んだものであるかも見られるのです
たとえ多くの施しをし、ボランティアにいそしんでいたとしても、それが自分に栄光を帰するための行為であったなら、それは空しいものとなります
よこしまな思いをもって善行を積んだとしても、それははかられることなく取り除かれてしまいます
どれだけ本気で相手の事を思い、無私の心で愛を与えたかで、霊界ではそのものの偉大さが分かれてきます
より多く、綺麗な心で愛を与えた人は、より高い霊界に住み、わずかしか与えなかった者は、低い階層の霊界に住むようになります
高い霊界にいくほどに、光の量は増していき、光輝く世界になっていき、階層が下がるほどに地上世界に近いものとなっていきます
地上に生きたときに、人に与えるよりも、もらったり奪う量が多ければ、落第する人も出てきます
落第するとは、不調和な霊域に落ちてしまう事を言います
不調和な霊域とは、古来、宗教などで言われていたような地獄の世界と呼ばれていた階層です
そこには神様の光が届きませんので、暗くじめじめした世界に、多くの住人が暮らしています
これは神様が悪い者に光を与えないようにしているのではなく、そこに住むものの心が、神の光を拒絶しているからなのです
真理の光を受け入れず、認め無いものは、不調和な世界におもむくことになります
生前にあの世を認めず、霊的なものを軽視してきた者や、唯物論者、無神論者は低い階層へ行ってしまいます
地上にある時に、あの世など無いと否定してきたような人は、真理の光を自ら拒絶しているため、暗い世界へとおもむくことになるのです
そして無神論者だけではなく、熱心な宗教の信者にも、不調和な世界でとどまっている者たちがいます
この宗教を信じたものだけが救われるなど、頑なに宗教信条を信じてきた者どうしが集まり、同じ世界に留まり続けています
自分の信じている宗教こそが絶対であると思い、他の意見は聞き入れないために、一つの世界に縛られてしまうのです
信じる者はすくわれると固く信じているもの同士が集まって暮らしています
彼らは頑なな思いを持っているため、たとえ導きの霊がおもむいたとしても、その意見を聴かず、自分たちの信じるものだけで固めてしまうのです
本来であれば、霊的な学びと体験を積んでいって、より上位の階層に進むべきですが、一つの所に留まり続けてしまいます
無神論者もそうですが、熱心な宗教の信者であっても、自分たちだけ正しく、この宗教を信じてさえいれば救われると固執しているような者も、同じように不調和な世界に縛られてしまうという事を知っていてください
6 件のコメント:
無神論の方からも宗教的な方からも攻撃されてしまうかと、心配致しますが、言うに言えないことを語って下さり、感謝申し上げ致します。
大変心に響くためになるお話でした。
ありがとうございます。
昔、私の知り合いに、宗教団体に属している人がいました。
もう、付き合いはありませんが、当時は、その人に、個人的にも振り回され、なぜ呼び出されたのか意味がわからない事もありました。
私の持っていた神社のお守りを毛嫌いし、邪教と言われました。
私自身は宗教に属しているつもりはないのだけれど。会費とか、お布施とか払ってないし。
その人は、身内の方の大病が治った事で、深入りしたようです。
私は、あなたの思いが通じたのね。と言いましたが、その人は宗教のおかげと思うようでした。
勧誘もされましたが、例えばマザーテレサのような偉大な方から言われたのなら、心揺れたかもしれないけれど、その人は、私からみて、視野が狭く、依存心が強く、わがままで、自分と自分の身内の幸せしか眼中にない感じの人に見えたし、もし、辞める時に、習い事を辞めるかの様には、いかないのではないかと、思えて、あなたには(宗教が)必要でも、私には必要ないと、断っていましたが、
ある時、行先も、事前に告げられず、聞いても答えず。その人の言う場所へ、一緒に、行ったら、宗教団体の集まりのような所で、その部署の偉い人?に初対面で、いきなり、説教?のような、例えば、宗教を信じないものは、いい死に方が出来ない、だとか、事故にあった人がいるとか、今だったら、脅しのような言葉。私はビビりながらも、質問などしました。信仰していて事故にあった人はいないのか?、など。事故にあったとしたら、信心が足りないのだ、と。辞めた人もいるけど、ろくな死に方をしなかった、不幸になった、などと。ん~、やっぱり、何を聞いても納得に至らず。
とにかく最後には、無事に帰れて良かったけれど。
あまり会わなくなってからも、数年ごとに、連絡が来ていましたが、最後の連絡では、以前よりもっと、自信をもって信仰しているようだったので、がっつりと、友達とも思ってなくて、勧誘だけが目的になったなら、二度と連絡しないで!、と。
けれど、死後は、そうゆう宗教に依存した魂は、集団で、どこへも行けずにさまよっている事があると、私も、以前に聞いた事があります。
集団でさまよっていても、何か変だとか、何か気づきがあったら、罪悪感を持たずに、それを信じてほしいですね。依存ばかりしていては、幸せでない気がするのですが。
それとも、あちらから見れば、逆に、宗教団体に属していない私が、不幸に見えるのでしょうか?良い事も悪い事も、人並みにあったと思うのですが。
私も同じ様に絡まれた事が。同じ宗教かな?何も告げられず幹部にあわせられ同じ様に祈らないと不幸になるとか。信者を見ても幸せそうに見えなくお布施にかかりお金に困ってる人も。自分の幸せしか考えてなかったですょ。
不幸な経験等で宗教嫌いになった方達にとっても、こちらは貴重な救いの場ですね。
宗教も千年単位の歴史に耐えられるものもあれば、その中でも宗派によっては?なものも、その他、色々ありますね。
不理解が生む哀しみは、宗教に限った話ではないので、神近き認識力、理解力は万人に必要ですね。
それがある程度修得できれば、どこかで宗教を理解でき、人種、文化の差を超越でき、最終的には星の違いを超えて宇宙の仲間に入れるのでしょうね。
脅したりお金のことばかりいうようならば、ろくな宗教ではないでしょう。
不思議に団体になるとそういう側面が出てきます。
宗教に入る事と信仰心を持つことは別物だと思っています。