この世の命を育まれている偉大なる存在=神仏はどのような目で世界を見ているでしょうか?
おそらく二つの異なる観点から見られていると思われます
その一つが平等観です
この世の生きとし生けるものをすべて一視同仁に愛し、慈悲の思いで見られている視点です
あらゆる生き物が命の輝きを宿しており、平等に尊いものだと感じるものです
慈悲という言葉があります
慈悲とは命をいつくしむ思いと、その苦しみを見て悲しむ思いを言います
慈悲をあらわす言葉として抜苦与楽とよく言われいます
抜苦与楽とは、生き物たちの苦しみをみて、それを取り除き抜いてあげたいという思いと、楽を与えたい思いの事です
こうした慈悲の目で生命を平等に見る目という平等観があるでしょう
そしてもう一方には、差別観というものもあるはずです
差別は仏教用語でしゃべつと読みますが、人を差別するというと悪い事のように誤解されるかもしれません
しかし、万物の本質が一如であり平等であるという見方と同時に、その万物の現れ方に高低の差や、善悪の差という特殊相がある、差別があるとする見方があります
生命の発現の仕方にも、やはり高度な現れ方もあれば、低次の現れ方もあり、同じ人間であっても善の性質が多く発現している者もあれば、悪の部分が多く現れているものがあります
このように明確に区別し、違いを分かって見ている目が、差別観です
ともすると平等と差別というのは、相反する見方のように思われますが、実際には神仏はこの両方の目をもって生きとし生けるものを見られていると思います
これらはおもに仏教で言われる事ではありますが、すべての生命を平等に見ているとともに、差別相も見ているという事です
二つの異なる見方で物事を見つめる事で、立体的にとらえているのだと思います
平等観からすると、生きとし生けるものは光輝く命であって、あるがままで貴いものであるという思いを神仏は持たれていると思います
一視同仁に愛するような慈悲の思いがあるでしょう
そして同時に、より優れた者、より良い者になっていく事を願う思いもお持ちだと思います
人々が努力向上していって、より良きものになっていき、善を進めて悪を離れることをも願っています
このように二つの観点から見ておられると考えられるのです
私たちも神仏の子であるなら、これらの観点をもって、命を見ていくようにしていくのが大切だと思います
どちらか一方では、片手落ちになってしまうでしょう
ワンネスは平等観で万物を見る目です
しかしそれだけでなく、二元的に自他の善悪や高低をも正確に判断し理解していかないといけません
神仏は慈悲の目で見る平等観と特殊相で見る差別観の二つの目で立体的に見ておられる、ということですね。
返信削除あらゆる生き物は神より創られ神仏と同じ性質を宿している仏の子でありそのこと自体が尊いとする目ですね。
「慈悲」は太陽のように与えきりの愛で、相手によって差別区別する相対のものではなく誰もが平等に頂いている神仏の愛ですね。
一方、差別観はその者の光の量によって発現の仕方に差があるとする見方でしょうか。
努力向上を見る公平的な目に似てますね。
今朝、読んだものの中に「指導者としての愛の中には、一定の智慧を含んだ価値判断や善悪の判断、あるいは、より優れているものは何か、を見分けていく判断が含まれていなくてはなりません」という言葉がありました。
もしかしたらそれもその「差別観」に当たるのかなぁ?と思いましたがどうでしょうか。
神仏の差別相に適いたいと思うなら、精神的向上を目指して光の量を増やしていくことが大事だなぁと感じました。
まず「与える愛」の実践からがんばってみたいと思います。
またひとつ学ばせて頂きました。
ありがとうございます🙇♀️