私たちは砂漠を行く旅人のように、時にオアシスを求め、存在しない蜃気楼を追いかけてしまう事があります
のどの渇きを感じて、必死に湧き水の出るオアシスを求めるのですが、行けども行けどもそこには到達できません
蜃気楼の幻を追い求めてしまっているのです
人生においても私たちは幻を求めてさ迷ってしまう事があります
あの先に行けばきっと求めていたものが得られると考え、歩き回っていってみても、そこには砂漠が広がっているだけでした
ふと顔をあげてみると、また別な遠くにオアシスの姿が揺らいで見えます
そうしてまた別な場所へと移っていてオアシスを求めます
ですが、どこへ行っても砂漠だからけ砂だらけで、潤いのある水が手に入りません
オアシスは必死になって追い求めても、逃げて行ってしまいます
では、私たちを潤してくれる水は何処で手に入るでしょうか?
それを語る前に、日本の昔話を紹介したいと思います
「味噌買い橋」という話です
昔、山奥に長吉という信心深くて、正直な炭焼きが住んでいました
ある夜のこと、長吉が寝ていると夢の中に白髪の老人が現れ、「街のみそ買い橋の上に立つがよい。いいことが聞けるぞ」と言いました
長吉は、これを神様のお告げと信じて、早速炭を売りがてら街へ降りて行きました
ところが、長吉が街のひとたちに「みそ買い橋という橋はどこか?」と尋ね歩いても、「そんな名前の橋など無い」と皆言います
長吉は「確かに神様がお告げしてくださったのだからきっとあるはずだ」と思て諦めずに探し続けました
そうこうしているうちに日も暮れてきて、腹が空いた長吉は、村はずれの豆腐屋に入ります
ふと長吉は豆腐屋の主人にみそ買い橋は知らないかと尋ねてみます
すると豆腐屋の主人は、店の前の道に架かる小さな橋を指さし、「あれがみそ買い橋だ」といいます
今にも壊れそうなお粗末な橋でしたが、橋向こうにある味噌屋に行くために使われているので、みそ買い橋と呼ばれていました
長吉は次の日から、みそ買い橋の上で何かよい話が聞けると信じて立っていました
ところが、長吉が丸一日橋の上に立っていても、何も良い話しなど聞けません
それでも長吉は夢のお告げを信じて、何日も橋に立っていました
長吉の姿を見ていた豆腐屋の主人は「どうして何日も立っているのか?」と不思議に思って理由を聞きました
そこで長吉は、夢のお告げの事を豆腐屋の主人に話します
豆腐屋の主人は、長吉の話を聞くと笑いながら「そんなつまらない夢の事など、早く忘れなさい」と諭しました
長吉はさすがに気落ちして、すごすごと家に引き返そうとしました
すると豆腐屋の主人は、思い出した風に「そういえば私も変わった夢を見た。山奥に住む長吉という者の家のそばに大きな松の木があって、その木の根元に宝が埋まっているという夢だった」と独り言のように言います
長吉は大慌てで家に帰って、松の木の根元を掘り返します
すると、豆腐屋の言ったとおり、金銀財宝がザクザク出てきました
長吉はおかげで大長者になり、村の人たちから福徳長者と呼ばれるようになりました
この昔話は実はイギリスとアイルランドに伝わる「スワファムの行商人」を日本に置き換えた物語だそうです
スワファムの行商人の物語では行商人がロンドン橋でいい話を聞くという夢を見たという物語になっています
以前に人気となった『アルケミスト』というパウロ・コエーリョ氏の小説も、この話を下地にしているでしょう
これらの物語は、大切なものは遠い先にあるのではなく、身近に埋まっていることを示してくれています
オアシスも遠い先にあるのではなく、足もとを掘り進めると水は湧き出てくるのです
遠くに探しに行くのではなく、まずは自分の足元に井戸を掘り、掘り進めていく事で水は手に入ります
3 件のコメント:
幸せの青い鳥に似てますね💙🐬🐳🌎🌍🌏☄💧💦🎽🚙🚘🚲⚓️💎🛢
「私の足元にあるモノは何だろう、、?」と一日考えていたところ、「南無妙法蓮華経」と浮かんで来ました。
数十年ぶり?に唱えてみると、とても心が落ち着きました。
どうもありがとうございました。
等覚一転名字妙覚=究極の覚り(妙覚)は、己の足元にある。
つまり、「自己の目覚め」が悟りであるという意味ですね。
「法華経」は「人間はありのままで尊い」という平等思想を説く、最高の教えですね。