儒教では仁・義・礼・智・信の五つが大切な徳目(五常・五徳)とされています
儒教というのは中国の春秋時代に生きた思想家である孔子が説いた教えです
孔子の説いた教えは君子への道であり、理想的なリーダになるための教えであったと思います
儒教において徳の高い人物こそ君子であるわけですが、その徳の種類にはおもに仁・義・礼・智・信の五種類をあげる事が多いです
その他にも忠・孝・悌を加える事もありますし、さらに十徳を数えるところもあります
これは現代で言えば政治家にも当てはまりますが、起業家や会社で部下を持つ立場の者などに必要な内容だと思います
つまり人を導くリーダーにとって必要な徳目であると言えます
それでは具体的に見ていきましょう
まず仁が初めに来ます
仁とは人を愛する心。人を労り、思いやる心を言います
この仁が一番大切な徳目であり、これを外してはその他の徳は失われます
徳の土台となるのが、この仁です
リーダーとして必要なのは、部下を愛したり、人を愛する心であり、愛が基本になければならないという事です
時には厳しく指導しなければならない時もありますが、その根底には相手への愛がなければなりません
愛が根底にある事で、人を生かせるようになります
次に義が来ます
義とは正義の心と言っていいでしょう
善と悪を分け、正邪、真偽を分ける分別の心です
たとえ自分の利益にならないと思っても、正義を貫く姿勢と言えます
たとえば、企業で産地偽造などが問題になったこともありますが、いろんな会社で消費者にバレないだろうと思って誤魔化している所は多いと思います
賞味期限を誤魔化したり、産地を誤魔化したり、検査結果や、材質を誤魔化す事があるでしょう
そのように自分たちの利益のために、バレないだろうと不正を行う所もありますが、それは義に反している行為です
たとえ気づかれないと言っても不正を働いてはいけません
そのように義に反する事をしないようにすることも義のこころでしょう
あるいは最近ではウイグルの強制収容所で作られたものや、強制労働で作られた製品などが日本でも出回っています
メジャーな日本企業がウイグル人弾圧に間接的にも関わっていると知られています
そのように知らないふりをして安上がりで製品を作り、利益を上げる事は出来ますが、それはやはり義に反していると言えるでしょう
たとえ自分の利益になるとしても正義に反する事はしないのが、義のこころといえます
次に礼です
礼とは敬意を表現する心と言えます
会社で言えば一般的に上司や取引先に失礼の無いように礼を表すのもそうでしょう
あるいは部下や後輩など、後から来るものにも心遣いをすることも礼に入ると思います
こうした目に見える対人関係として礼が述べられていると思いますが、もう一歩進んで、目に見えない物への畏敬も含まれるのではないかと思います
神仏への畏敬もそうですし、目に見えない働きに対する感謝の心も礼に含まれるように思います
神様に感謝したり、ご先祖様や守護霊様に感謝する心も、礼に入るでしょう
次に智が来ます
智とは単なる知識の詰込みではなくて、深く洞察が加わった智慧にあたるでしょう
知識をたくさん持っている人もいますが、それが人の役に立っていなければ宝の持ち腐れになります
そして知識を集めるだけでなく、それを材料に自分で考え、智慧に変えていく工程が必要です
知識という豆粒をたくさん集めるだけではなく、それを発酵させて味噌にまで作り上げるような事でしょう
そして最後は信です
信頼するこころを言います
相手を信頼し、裏切るような事はしないという事です
会社においては、取引先によって言っていることが違ていたらだめでしょう
どちらにも良いように言って取引をしていると、いつか信用を失ってしまいます
口がうまくて成績を上げる方もいますが、信頼を損なうような事をしていると、段々と周りにバレていき、信用を失っていきます
相手を信頼するとともに、自分も誤魔化したり嘘を言ったりせずに、誠実な態度で接するという事です
以上は一般的な信ですが、スピリチュアルな観点からすれば、目に見えない存在を信じる事、法則を信じることなどが入ると思います
神仏からの加護を受けている事を信じて感謝する事であったり、因果の法則があり、間違ったことをしていては、いずれは自分に返ってくるのだと信じる事もそうでしょう
そのように、目に見えない存在を信じ、霊的法則を信じる事も信の徳目に入ると思います
以上、儒教の五徳である仁・義・礼・智・信について現代的な観点と、スピリチュアルな観点から述べてみました
空海様が、若い時に書き記しました「三教指帰」
返信削除空海様の直前の前世は不空三蔵でありました。
不空三蔵には愛弟子で青龍寺の恵果和尚がいました。
空海様は遣唐使になって晩年のかつては愛弟子であった恵果和尚に会われました。
リレーのように使命ある方によって仏教は日本に伝えられて行きました。
彼らはソウルメイトなのです。
本題はこれからなのですが、三教指帰にはおどろくべきことが書かれてあります。
中国の春秋戦国時代とインドのお釈迦様の時代は時間軸がそれほど離れていないはずです。
三教指帰によりますと、お釈迦様は弟子のマハーカショー様に次は中国に生まれ変わるよう、たのんだそうです。
マハーカショーが中国で生まれ変わり、老子になったという伝承を空海様は伝えておるのです。
さらに光珠菩薩というお釈迦様の弟子がおられて、彼は孔子になったとあります。
お釈迦様は自分が伝えたかった宇宙の現実、宇宙の真実、宇宙の法則、人間の真実が、中国の人達には到底理解されないだろう、と、だからその前段階の教えから始めなくてはならなかったのです。
その前段階の教えを伝えるためにマハーカショー達は中国へと生まれ変わっていったのです。
前段階の教えとはなんのことでしょうか。
一言で言ってしまいますなら輪廻転生を全く除外したもろもろの教えに他ならないのです。
輪廻転生を教えても、信じたくとも信じられないのです。
孔子の教えも老子の教えも輪廻転生は全くふれておりませんが、彼らはばりばりのお釈迦様の弟子だったのです。
空海様は仏教、道教、儒教の三つの教えの中から、仏教を選びとり、親鸞や法然でさえひれ伏すであろうまでのおん方になられたのです。
上記の三教指帰について投稿した者ですが、最後に書き記しました「ひれ伏す」云々の表現はこの水瓶座の時代にあっては大変違和感を感じてなりません。
削除天に帰られた空海様が、ひれ伏す云々の表現を見たら眼をそむけるのではないでしょうか。
仏教にせよ、キリスト教にせよ、たぬきやきつねなどの動物霊を憑けてしまった人が一杯だと聞きます。
ひれ伏してもらいたい欲の人達。
ひれ伏すなどという表現は今後は使わないことにいたします。
上記の方の記述は、空海による引用ですが、中国の天台大師の著作や日本の日蓮大聖人の著作の中にも経典よりの引用が述べられていますので、ここで具体的に記述しておきたいと思います。以下はその文章となります。
返信削除日蓮大聖人の御書の中の開目抄の始めには「而りといえども過去未来をしらざれば父母・主君師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず、孔子が此の地に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといぬて外典を仏法の初門となせしこれなり・・・・・止観に云く「我れ三聖を遣わして彼の真丹を化す」等云云。弘決に云く「清浄法行経に云く、月光菩薩彼に顔回と称し、光浄菩薩彼に仲尼と称し、迦葉菩薩彼に老子と称す。」と示されており、ここでは、老子とは釈迦が中国の衆生を教化するために三人の聖人を使わせて、その聖人たちが中国に転生して、仏教が中国に広められるための基礎を造らせたとあり、その中で迦葉菩薩と云う方が中国に生まれ変わって老子と称したと述べられているのです。
つまり、ここで述べられていることは、中国で仏教を広めるにあたって、中国の衆生の機根を整えるために、釈迦仏は、弟子である三人の菩薩を中国に転生輪廻させて、先に儒教や道教などの教えを広めて、衆生の機根を整えてから、仏教が中国に伝えられたので、仏教が中国に広く受け入れやすくなったと述べていると思います。
つまり、いきなり内道の教えを広められない、受け入れられないので、橋渡しとなる教えを先に伝えて、衆生が仏教に入れるようにするのです。そしてこのような道理が経典の中には伝えられてきたということなのだと思います。
空海様のお話をありがとうございます。
返信削除スクール生でしょうか、心あたりが・・
空海様もスクールを支援なさっていると思います。
リレーのような使命を果たせますように
空海様に対するコメントに恐れおののいてしまいますが、、、
返信削除儒教は現在中国と呼ばれている地(その当時に中国と言う国は無い)に紀元前に生まれたものだと認識していますが、日本へ渡り日本で育った部分もある学問だと考えています。
その為、今後論語等を初めて読まれる方は色々と違和感を感じると言うことを知っていると、入りやすいと思います。
礼について、、、
礼の正字は『禮』です。
禮の意味はその漢字が表している通りでして、
部首のシメスヘンの『示』は神様等に捧げる祭壇を表しています。
その祭壇を豊に飾る。それが禮であるという事です。その為、禮には元々スピリチュアルな意味で作られた漢字だとおもいます。
漢字は本来の形で考えた方が分かりやすいです。
舊漢字と呼ばれている文字が日本人に再び回帰する事を陰ながら願っておるものです。
仏教では今でもそのままの字を使っていますよね?