哲学の起源として有名な、2400年ほど前にギリシャに生きたソクラテスという人物がいます
しかしソクラテスは単なる頭の良い人ではなく、霊的な能力も持ち合わせていた人だったようです
今日はソクラテスについて簡単に取り上げてみたいと思います
ソクラテスは世界四大聖人に数えられています
ちなみにソクラテス以外の残りの聖人として、イエス・キリスト、仏陀=お釈迦様、孔子があげられます
ソクラテスは当時のギリシャの人々から、若者たちに悪い事を吹き込み、国家の信じる神々を信じずに新たな神を信じたとして糾弾され、最後は毒杯を自らあおって亡くなります
ソクラテスの弟子であったプラトンの残した「ソクラテスの弁明」という本で、ソクラテスはどのように裁かれ、弁明したのかが書かれています
ソクラテス自身は深く神様を信じる真摯な方であり、また若者を堕落させるのではなく、むしろ向上させていたことを弁明します
その中でソクラテスは新しい神を信じたとされ糾弾されるのですが、それついてソクラテスはこう述べています
『私の身の上に、実に不思議なっことが起ったのである。
すなわち私の聴き慣れた[神霊の声の]予言的警告は、私の生涯を通じて今に至るまで常に幾度も幾度もきこえて来て、特に私が何か曲ったことをしようとする時には、それがきわめて瑣細な事柄であっても、いつも私を諌止(かんし:いさめて思いとどまらせること)するのだった。』
つまりソクラテスには、彼が何かをしようとする際に、それが間違ったことであった場合、神霊の声が聞こえて止めさせられるという事が生涯を通じてあったと言います
この神霊をダイモーンと呼びます
ダイモーンのもともとの意味は、目に見えないものであったり、神霊的な存在や神霊や精霊そのものを指す言葉でした
神そのものよりも人に近い存在について使われていて、今でいえば天使のような存在といえるでしょう
実はこれは、ソクラテスの守護霊からの声を聴いていたのだと思います
ソクラテスはもともとそうした霊的な素質を持っていて、幼いころから不思議な体験をしたり、守護霊の言葉を聞いたりしていたのでしょう
こうした彼の霊的な能力が信じられなくて、新しい神を信じているということでアテナイ人はソクラテスに反感を持ったのです
ちなみにこのダイモーンという語は、キリスト教が普及してからは、異教の神などを指す言葉として嫌われ、後にはデーモンという悪魔を指す言葉の語源になります
一神教のキリスト教にとって、多神教の神々や、自分たちと別な神というのは、魔の存在と考えられていたわけです
そのように霊の声を聴いていたソクラテスですが、もともとの国の信じる神を認めなかったのではありません
ソクラテス自身が偉大な知恵者として広く知れわたるのは、デルフォイの神託から来ています
当時のギリシャではアポロンの神を祭るデルフォイの神殿があり、そこでは巫女が神様の声を伝える役割を果たしていました
ソクラテスの知り合いの友人のカイレフォンが、デルフォイに言って、ソクラテス以上の賢者がこの世にいるのか聞いていました
すると神託では「ソフォクレスは賢い、エウリピデスはさらに賢い、しかし、ソクラテスは万人の中で最も賢い。」と言われます
これを聞いてソクラテスは「自分が賢明ではないことはよく自覚している、しかし神様が嘘を言うはずもない、これは私が賢者よりも自分が知らないことを知っている。無知の知がある点でわずかに人より賢いと言っているのではないか?」と述べます
神託を否定するのではなく、信じているのですね
そしてここで有名な「無知の知」が出てきます
「世の中にいる知識人とされる者、賢者とされる人は、どれも何も知らないのに『自分は知っている』と思い込んでいる人ばかりだった。『知らないことを知っている』ほうが賢いのではないか」と言っているのですね
ソクラテスは賢者でありますが、当時の知識人を論破する切れ味が強くて、多くの敵を作ってしまった面があると言えるでしょう
そのため嫉妬もかって若者を堕落させる危険思想家として告発されたのです
ソクラテスは裁判で堂々と自分の弁明を行うのですが、彼が正しい事を言っても、かえって民衆は怒るようなありさまでした
人は自分の過ちを指摘されるのを嫌うものです
その指摘が正しければ正しいほど、正確であるほど人は怒るものです
人々を怒らせてしまったソクラテスは、裁判で死刑の宣告を受けてしまいます
そして捕まって牢屋に入れられるのですが、ソクラテスは逃げようと思えば逃げられたのです
周りの人は脱獄を進めるのですが、ソクラテスはそれを断って、毒杯を飲んで死んでしまいます
自らの死を受け入れた方でした
ソクラテスにとっては死は終わりではなく、一種の幸福であると思っていたようです
今回の裁判ではダイモンからの警告は無く、それでよかったのだと確信してソクラテスは死の杯をあおぎます
ソクラテスは後に言われるような単なる理性の人ではなく、霊的能力も持ち合わせていた人でした
人類史上の真理の探究者であったのは間違いありませんが、彼はこの世的な目で覆われておらず、霊的世界をも視野に入れて世界を探求した人物でもあったのです
3 件のコメント:
ソクラテスもイエスも本当に正しいことを伝えただけですが、それを妬ましく思う人たちから迫害されてしまい、結局、せっかくの智慧が人々に届かないようにされてしまいました。
妬ましく思う人たちには自分最優先のエゴがあるため、たとえ本当に正しいことを言われていてもなかなか認められなかったのだと思います。
私は今回そんなイエスさんの言葉を受け止めて翻訳しているのですが、誰に対しても分け隔てなく理解されやすい言葉に翻訳するようにと言われていることと、(自分の言葉に興味がある人にしか読まれないように)ブログという手段を取られていることによって、
イエスさんの言葉が本当に必要としている人たちへ届くように・迫害をするような人たちの耳には極力届かないようにとの配慮を感じます。
その言葉を必要としている人がいるのに、迫害されてしまったら届けられなくなる…その不合理さを2000年後の今回は排除しながら皆さんにお伝えしようとされているみたいです。
本当は救われるのに、その人を排除しようとする…神様から見たら、本当に愚かでもったいないことです。
ただ、イエスさんの言葉を聴くのには特別な力というか生命力を使うため、命を縮めているのがわかります。
よって、いつ死んでも後悔しないよう、心を込めて、これからも翻訳したいと思います。
ソクラテスを取り上げてくださり、感激しております。
日本には哲学という学門はない、と言った学者がいましたが、大変な勘違いをしていると思います。
近代の哲学だけをみている学者はすっかり哲学の理念を見失っているように思えてなりません。
古代ギリシャの哲学こそ、本質を失っていなかったと思います。
ソクラテスのように、テレパシーの感受性にすぐれた人が高次元からの声を聞き、輪廻転生を哲学の命題の最優先課題においていたのです。
それでは宗教になってしまう、といわれてしまいますが、宗教と哲学は別物ではなかったのだと考えられます。
プラトンは輪廻転生を取り上げ、プラトンに影響あたえたといわれますピタゴラスはガチガチの輪廻転生を伝道する哲学者だったと私は思っております。
エドガー・ケーシーは自分の過去生を語るとき、ピタゴラスであったことを語っております。
「小屋の周りには私を批難する群衆。帝王切開しようとナイフを手にしている私」そのようなピタゴラスであったときの映像をケーシーは述べておりました。
エドガー・ケーシーとピタゴラスを重ねられる人でありますなら哲学と宗教とスピリチュアルが分離したものではないことを知らされると思います。
この世界で最も醜く恐ろしいのは、人間の妬み、ヒガミのエネルギーではないかと思います。