人はだれしも、他人に認められたい、社会的に評価されたいという欲求があります
どれだけ一生懸命に働いて頑張っても、それを認められず、評価されなかったら辛いものとなるでしょう
仕事だけでなく、妻が夫につくしたり、子供のためを思ってしたことが、何ら認められず反感を持たれてしまったら、悲しいことでしょう
心理学的には承認欲求と呼ばれることもあります
認められたい欲は子供のころからあり、特に親から認めて欲しいという願いを子供は持ちます
親に認められていると思うと子供は安心し、認められていないと感じると、ストレスで泣き叫ぶようになります
子供は親に認められ、褒められることを求めて、成長していきます
人だけではなくて、動植物にもそうした欲求はあるように思えます
たとえば犬が、飼い主の投げたボールを喜々として咥えて持ってくるのも、単に遊びとして楽しんでいるばかりではなく、飼い主に認められる喜びを感じているように見えます
また、猫が狩ってきた生き物を捕まえて家の中に持ってくるのも、ただ巣に持ち帰る本能からだという人もいますが、どうも自分の能力を人に見せているふしがあります
植物のお花なども、綺麗に咲き誇っている様は、美しいと見られたいという意識があるように感じられます
植物に意識なんてあるわけないと思われるでしょうが、実際には動物ほど発達はしていませんが、ある程度感じられる意識は持っているのです
そのように生きとし生けるものはみな、認められたいという思いを秘めているものだと思います
ではなぜ、そうした思いを抱くのかというと、認められたい欲求を持つことで、魂は進歩向上していけるように願われて創られているからでしょう
何も認めてもらう必要を感じず、ただ自由気ままに生きていれば、おそらく生命の進歩はとまり、停滞する世界になっていくことでしょう
人に認められる立派なものになりたいという欲求があるからこそ、健全な成長も見込めるものとなります
そうした私たちに必要な欲求ではありますが、それがために人には苦しみも生じてきます
「これだけ尽くしたのに、相手に認めてもらえない」
「自分の努力や才能を、世の中に評価してくれない」
そうした苦しみを感じる人も多くいるでしょう
これらを解消したり、気持ちを軽くしていくためには、霊的な人生観を築いていくことだと思います
この世では、一見すると世の中不公平に見えて、正しく評価がなされないように見えますが、あの世を貫く霊的な視点で見ると、すべては無駄ではなく、人のなしたことは完璧に公平な評価がなされます
地上に生きる人間には、見落としたり、気づかない事もありますが、霊的な存在からは、隠されているものもすべてお見通しです
イエス様の言葉として、以下のような教えが説かれています
マタイによる福音書6章
5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
この世で器用に立ち回り、実力以上の評価を得るものもいますし、人に見えないところで努力し、この世では評価されないこともありますが、すべては霊的に見ておられて、いずれ公平な報いをうけるのです
そうした霊的な価値観を受け入れて生きることで、神様仏様はしっかりと見てくださり、分かってくださることを理解できるでしょう
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