2018年3月6日火曜日

スピリチュアルな観点で見た安楽死と延命治療の問題、橋田寿賀子さん


テレビドラマ『おしん』や『渡る世間は鬼ばかり』の脚本を手がけられました、脚本家・橋田寿賀子さん(92)が、安楽死を希望しているということで話題となっています

橋田寿賀子さんはご自身が「認知症になったり、身体が動かなくなったりしたら、安楽死したい」と雑誌の取材で述べたり、著書『安楽死で死なせて下さい』の出版などが反響を呼んだようです


彼女は「寝たきりになったり、重度の認知症になったりして、人に迷惑をかけてまで生きていきたくない」と語っています

橋田さんのご意見には、賛否両論あって話題となっているのでしょう

このことについては論点が二つあって、それが合わさって議論になっているため、余計に混乱したものとなっていいるように思われます

まず一つ目の論点としては、延命治療の問題があるでしょう

現代では、死んだら終わりだという考えが多いですから、ただ単にこの世での命を長らえさせることがよいことだとする考えがあります

あの世も、魂の存在も認めていないため、肉体イコール自分という考えから、肉体を延命させることに重きを置いています

ですが霊的な観点からすると、人はみないずれあの世へと帰っていく存在で、肉体は魂を乗せる器のようなものであり、その器を自分と思い違いすることには問題があると思います

ただ肉体を延命させようとして、患者の苦痛を長引かせるような延命治療よりも、たとえ少し短くなっても、本人が楽で幸せを感じられる状況を作ることが、あの世への旅立ちとしては大切でしょう

ですので、現在日本で行われている延命治療については、考え直す必要があるのは、橋田さんの問題提起はよいことだと思います

もう一つの論点としては、「人に迷惑をかけてまで生きたくない」とする積極的に死を望む問題があります

これはひとつには、自殺の肯定につながりかねないという問題と、もうひとつは、お体の不自由な方などの生きる価値を否定するような考えにつながっていく問題があります

有用だから生きる価値があり、無用となったら生きる価値はないとする考えも、唯物論的な価値観から出てきやすいものです

人間を物質の塊であり、機械のように見る唯物論からは、人を有用か無用かで判断する考えが出ます

ですが、霊的な観点からすると、障碍者の方や、身体の不自由な方も、周りの人々に自分の健康や置かれている立場が、実は恵まれていることを認識させるために、あえて役割を果たしている面があります

身体が不自由になったから死にたいと願うのは、肯定できないものがあります

以上のように、肯定できる部分と、出来ない部分が含まれているように思われます


安楽死と延命治療について



先日アメリカの方で脳腫瘍にかかって余命半年と診断された女性が安楽死をするというニュースがありました

女性は安楽死が認められている州に移って、そこで医者からクスリを渡され、それを飲んで亡くなるという選択をしています

こちらについてスピリチュアルな観点からどのように判断されるかと言う事ですが、やはり自殺に近いものがあるように思われます

自殺された方の場合、この世に生まれてくるときに様々な課題を背負って人は生まれてくるわけですが、自殺は課題を放り投げてしまうことになってしまうため、次の世でもまた同じような課題を繰り返しますし、容易に浄化されないという問題があります

自殺された方はその現場に霊が残り、自殺時の苦しみの状態が繰り返されると言います

今回の安楽死の場合も、病気にかかると言うのも人生の課題の一部であると思うので、やはり人生を途中で放棄している部分があり、自殺に近いと言えるのではないかと思われます

それとアンケートの質問で延命治療についての話がありましたが、安楽死と延命治療については違うものがあるのではと思います

単にこの世での命を永らえるためだけの延命には唯物的な思想が含まれている部分もあるでしょう

死んだら終わりだからただ命を永らえさせるだけが目的となていますけど、長くても何も出来ない状態よりも、短くなってもよりよい生活をおくれるほうがよい部分もあるのではないでしょうか

病院で管をたくさんつなげられて延命されるよりも、自宅で家族のもとで療養できたり、同じような方々と共に有意義に残りの時間をすごせるならそれがよいように思います

ですので安楽死と延命治療については逆の意見のようにみえますが、上記のような観点があります




関連記事



0 件のコメント:

今後のコメントは X(旧Twitter)にてお待ちしております。