私たちは、肉体に宿って、この世である物質世界に降りてきた魂です
魂とは本来、姿かたち無き存在であり、思考するエネルギーそのものと言えます
魂は不滅のエネルギーであり、物質である肉体を働かす力です
本来は形に囚われることなく、自由自在なエネルギー体が、物質の肉体に拘束されることで、様々な制約の中で生きなくてはならなくなります
そうした不自由な環境である地球に肉体を持って生まれでる理由とは、魂を向上させ、磨いていきたいためです
様々な束縛があり、制限があるからこそ、魂は磨かれて、さらに輝いていくようになります
磨かれて輝いていくという事は、みなさんの魂の奥には、本来、輝く本質を宿しているからです
もしも、私たちの本質が闇であるならば、磨いていくほどに、黒く汚れた面が現れてしまいます
私たちの魂の本質は、宝石のような輝き価値のある存在であるからこそ、磨いていけば光を発するようになります
それを仏性といったり、神の子の本質と言ったりしています
人にはそれぞれ、神仏の性質を宿しているということです
この世で生きて、あまりに泥や汚れがついてはがれなくなってしまった魂は、内面の輝きが失われ、泥の塊のようにも見えるでしょう
ですので、汚れやほこりを取り払い、自分自身の本質を見出していく努力が必要です
実は、各自の魂の輝きには、それぞれの個性が宿っています
磨けばすべてが同じ光になるのではなくて、それぞれの個性が許されているのです
たとえばダイヤモンドのような輝きを宿している魂もあれば、ルビーの輝きや、サファイアのような色を発するものもあり、水晶のように透明な輝きを宿した魂もあります
様々な特質をもって生まれた魂が、私たちの魂であります
それは、ある人は芸術家の性質を宿して、世の中に美的なものを出していって、人々を楽しませるという人もいれば、政治的な役割があって、政治の場で人々の役立つ人となる役目を持っている人もいます
それぞれの人が、色々な特色を持った本質を宿していますが、地上に生まれて、魂を磨いていく中で、より輝かせるための磨きを入れて生きているのです
魂の本質は高貴な存在だとしても、それでよいのではなく、磨いていってこそ、より本質が輝いていけるのです
食べ物でも、お米なども収穫した稲のままであれば、美味しく頂けるものではありません
きちんともみ殻を取って、玄米を磨いてぬかを取り、白く輝く姿になって、みんなに美味しく頂ける白米になります
(もちろん玄米もよいものであり、ぬかも有用なものですが、この場合はあくまで例えとして聞いてください)
人間の魂も、もみ殻やぬかがついたままでは、人々に美味しく頂けずに、いろんな纏ったものを脱ぎ捨て、磨いていってこそ、みんなが笑顔になれる味になります
それはつまり、もみ殻が物質世界における執着や物質欲であり、これらが付着することで、魂も重くなることを意味しています
そしてぬかというのが、魂についた汚れであり、お米が他の米と擦れる摩擦でぬかを落としていくように、魂もまた他の人々との切磋琢磨や交流を通して磨かれ、本来の輝きを発揮していきます
他人との摩擦で磨かれていったお米も、ぬかは取れましたが、まだ汚れのようについたままなので、水で洗うはずです
そのように洗米してぬかや汚れを取り除くように、魂も汚れを反省や懺悔をして洗い流してこそ、綺麗に白く輝いていきます
こうして私たちの魂も、本来備わっている美しさを取り戻し、人々に喜ばれる存在となっていきます
2 件のコメント:
>魂の本質は高貴な存在だとしても、それでよいのではなく磨いていってこそ、より本質が輝いていけるのです
元が良くても努力しないと輝かないと言う事ですね。
しかも、その高さに応じて、それ相当の努力が必要になる訳ですね。大変そう(*´з`) 他人事(笑)
話は少し違いますが「だいこん」はそのままでは人に出せない。水で泥を洗い綺麗にしてから包丁で切ったり、刻んだり煮て味を付けてからお出しします。
人間も同じでなんですね。
生まれたまんまで何もしなければ誰も価値を認めてはくれないと言う事になりますかね。
>魂も汚れを反省や懺悔をして洗い流してこそ、綺麗に白く輝いていきます
私の魂は他人との摩擦で一応は磨かれているとは思いますが、まだそこまでの段階だと思いました。
そして反省まではしますが、正直懺悔まではしたことがありません。過去を思い出し懺悔しなければいけないことはたくさんあると気付きました。
少しずつでも思い出し、懺悔していこうと思いました。
そして懺悔しなければいけない事柄を思い出すと少し泣きたくなるような感情が出てきます。自分でも思い出したくないことは心の奥底に押し込んであるのか?今になってやっと罪の意識を持てたからか?などと思いました。
ありがとうございました。