私たち人間は、未熟な存在として生まれ、何度も過ちを繰り返して生きています
そうして創造主と呼ばれる存在は、こうした未熟な存在としての私たちを生み出したのでしょう?
完全な存在であるはずの創造主からすれば、私たちも、私たちが住むこの世界も、不完全で未熟な存在であるはずです
完全性や完璧さを求めるのなら、私たちのような人類を生み出す必要は無かったでしょう
創造主はそのまま存在して完璧なままであればよかったはずです
ではなぜ、私たち未熟な人類を創造したかと考えると、そこには、成長に伴う喜びを肯定されたのではないかと思います
たとえば私たちが親の目線で子供を見る時に、生まれたての子供は、自分で何もできず、ただ泣いて親の保護を受けなくては生きていけません
それが徐々に成長していくにつれて、一人で歩けるようになり、言葉を話すようになり、一人でトイレに行けるようになります
そのように子供の成長する姿を見て、親は嬉しいものではないでしょうか?
それと同じように創造主も、私たちの魂が成長していく姿を持て、喜びを感じているのだと思えます
様々な過ちを犯す私たち人間ですが、幾転生を経て、徐々に魂の学びを深め、魂が向上していく姿を、喜びを持て味わっている存在がいます
それゆえに私たちは、何度も生まれ変わりを許され、繰り返し転生していく存在としてお創りになられているのでしょう
そして私たち人間には、自らの過ちを反省し、軌道を修正していける力と、人々に積極的に幸せをもたらす為の愛の力を授かっている存在です
魂の旅を歩んでいくために、創造主から人間に与えられて道具が、この愛と反省の力なのです
この二つを用いていくことによて、車の両輪のように、道を進んでいくことが出来ます
2 件のコメント:
スクール生です!いつもお世話になっております!!
両輪…ですか、なるほどですね
道理で反省だけしても堂々巡りになるわけです。ベビーカーや車椅子が片側しか進まなかったら、延々と同じところをくるりくるり回るだけになってしまいますよね
子供は一度自分を責めると己の力だけで恐怖や悲しみから抜け出すのは困難になるものだと思います
親が「よしよし、もう良く分かったね」「君が悪いことしたってパパ、ママはちゃんと側で見守っているんだよ」と許しのタイミングを促すことで、子供は前を向けるのかもしれません
反省してなかったら「分かっとるんかアンタ〜!」とまたお尻ペンペンされるでしょうけれど(笑
愛と反省のバランスをその都度学んでいくのですね
そしてそのバランスは自分と神との対話でしか正解を知ることはできない
よく内観しなくてはなりませんね
僭越ながら、親になって神様の気持ちがほんのわずかですが理解できるようになった気がします。こどもの些細な成長は本当に嬉しいです。親になってからは神様も私の小さな成長をこんな風に喜んでくれているのだろうかと考えることが多いです。逆に子どもが辛い思いをしているときは私も同じく辛い。神様も同じように寄り添ってくれているのでしょうね。