ひとは幸福を求めている存在です
ですが、同時に幸福を恐れてもいます
山の頂に幸福があるのに、あともう少しで到着するというところで、今まで登ってきた道を引き返してしまう人がいます
ではどうして人は求めていた幸せを避けてしまうのでしょうか?
それは幸福の元となるものが、不幸なものと見えてしまうからだと言えます
人は不幸を避けよう避けようと考えて生きているうちに、いつの間にか幸福をもさけて通っていく事があるのです
一見するといばらの道と思える選択の先には、バラの庭園が待っているかもしえません
努力で何かを成し遂げる事もそうでしょう
頑張って努力していく事は厳しく辛いですが、その先には良いことも待っているわけです
コツコツと続けた先には、大きな喜びも訪れます
また逆に、楽を求める事が幸せに感じていても、それを続けていった先には、厳しい現実が待ち受けています
仕事で怠けていると、いつの間にか同僚に先を越されていて、いつまでも出世できなかったり、リストラの肩たたきをされてしまう事もあるでしょう
自分は楽な道が幸せだと思っていたのに、後になると苦しみが増していったりするわけです
そのように人生にはパラドクスが存在し、不幸と思えることが幸福の種であったり、幸福と思えるものが、不幸の種となることがあります
訪れた不幸と見える出来事が起こっても、それを克服した先には、幸福の道が開いていることがあるのです
不幸を避けていこうとばかり考えていては、幸せをも逃してしまいます
恐れてばかりではなく、勇気をもって手に入れることも重要でしょう
5 件のコメント:
心の琴線に触れるメッセージを有難うございます。こちらのブログに出会ってから、自分との対話が増えました。
何故幸せにならなくていいの?何故幸せを人に譲るの?何故幸せが手に入ると怖いの?どうせ手からすり抜けるなら最初から手に入らない方がいいの?
自分にとってのほんとうの幸いがまだ何かも判ってないのに?
私は私と出会い、私を知り、私と仲直りをして、この身体を使って幸せになる為に生まれてきた気がします。
考えるきっかけを下さって有難うございます。でもまだ雑念が整理出来ないので頭がクラクラかも〜(汗)明日のワークと台風に雑念を吹き飛ばして貰います!
いつも洪先生に助けて頂いています。
がんばります。ありがとうございます。
幸福になりたい、という人は自分が不幸であるという前提に立っています。皆の幸福のためにとかいう人も皆が不幸だと決め付けています。これだけ平和で豊かなな日本に住んでいて、まだ足りないのでしょうか。どれだけ欲張りなんですかね。
幸せを人に譲ってきたワタシ。何故なんでしょうね。目の前にあるのに譲ってしまう。そこで掴めば良かったのに。仕事のお役、ちょっとしたお手柄などなど。自分より他人を優先して大事にしてあげたいから?喜んで欲しいから?もしかしたら、それ等は偽り? だから後で後悔するし、いつまでも心に引っかかっている。それで良ければ後悔しないハズだし。目の前に来た幸せを掴む事は横取りでもなく他人を蹴落とす事でもなく、他人を不幸にする事でもない。掴んだ幸せが逃げていくのが怖い。だから最初から掴まない方がいい。これも、きっと歪んだ考えでなんですね。心に落ちる投稿ありがとうございました。
考えさせられますね。
例えば福祉でも、困っている人のためにある生活保護ですが、努力しなくても生きていけるようになるのは危険なことでもあると思います。
自分で出来ることを増やしたい、社会に貢献したいという気持ちが起きなくなってただ生きてるだけというのもどうなのかなと。
社会に出て生きていれば痛いこと辛いこともあるけど立ち向かえば強くなれる。心も成長する。
痛いこと辛いことを避けることが幸福ではないですよね。
生きるのは勇気が必要ですね。