どのような人生観を持っているかで、幸・不幸は分かれていきます
死んだら何もかも終わりだという考えを持っていると、この世は苦しみの世界に映り、実際にそうした世界が展開していくでしょう
生まれてきた意味も分からず、何故生まれてきたのか、何のために生きているかもわからず、迷いの人生を歩むようになります
そして食べるために苦しい仕事を一生続けなくてはならない
病気で苦しみ、やがて老いていて、身体の自由も失われ、あちこち痛みに耐えなくてはならない
そして最後に死が訪れて、何もかも失ってしまう
霊的な人生観を持っていないと、そのような不幸な世界に生きることになるでしょう
また、霊的な世界観でも、ちょうど今の時期は納涼の季節で、おどろおどろしい怪談話を聞く機会もあるでしょう
そうした一般で言われているような霊的世界観は、幽霊話やお化け話のように、不気味で恐ろし気な世界観ばかりなので、ポジティブな霊界観は出てこないでしょう
実際には人は何度も生まれ変わりを繰り返し、地上での経験によって、より深みや付加価値を重ねながら生き続けている光の存在です
光が肉体という有限な鎧に包まれて、すべてを忘却してこの世に生まれ出たのが私たちの真実の姿です
それゆえにこそ辛い体験や苦しい経験を、頑張って克服し、手柄話としてあの世に持って帰れるのです
死んだら終わりだという人生観や、おどろおどろしい霊界観では、人は不幸に落ちいってしまいます
正しき霊的な世界観を持つことでこそ、人は真の幸せへの道へと向かっていけます
愛と幸・不幸の分かれ
愛というものは、人を幸せの絶頂にもするし、不幸のどん底に投げ落とすものでもあります
愛されていると感じる時は、人は幸せを感じるでしょう
そして人に愛を与えていって、その人が幸せになる姿を見ても、人は喜びを感じます
つまり、愛を受け取った時、愛を与えてプラスとなった時には、愛は幸せの元となります
逆に、人から愛を奪われたと感じる時、愛を与えたのに裏切られたと感じた時には、人は不幸な感覚に襲われます
愛は目には見えませんが、実在のエネルギーであり、愛に満ちていると、人は満たされて幸せを感じるようになり、愛の不足を感じると、不幸な感覚が増していきます
仏教では渇愛という言葉があります
喉の渇いたものが、水を求めるように、得ようと必死な欲望です
人から一生懸命に愛を得ようとするのも、この渇愛と言ってよいでしょう
たとえば好きな異性がいて、その人が自分を愛してくれるなら、無上の喜びを得られるのですが、その人が別な人を好きで、自分にその愛が向いてくれないと思ったときに、苦しみを感じるでしょう
あるいは、愛し合って結婚した夫婦が、別な人と不倫したりするなどして、愛が他人に向けられると、苦しみの元となっていきます
他には、愛情を注いだ子供たちが、次々と巣立っていくことに、寂しさと悲しさを簡易jることもあるはずです
未成年の人であれば、両親が別な兄弟を愛していて、自分に愛情が向けられるのが少ないと感じると、苦しみを受けるでしょう
そのように、人から愛を得ることを求めすぎると、苦しみの原因となってしまいます
それゆえに、仏教では諸行は無常であるから、執着を断てと教えたのです
諸行無常というのは、この世の物事は、常にとどまることなく、たえず移り変わっていくものだということです
いつまでもとどめておこうと執着することで、苦しみを生むと説きます
愛は得ようとして執着すると苦しみのもとになりますので、人に与えていくことで喜びを感じ、愛情を注いでいくことを喜びとし、見返りを求めないようにするのが大切です
あまりに相手から愛の見返りを求めていると、そこが苦しみの元となっていきます
求めすぎずに、淡々と太陽の光のように、降り注ぎ続ける愛が理想なのだと思います
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