不幸と思われる事態を、本人も知らずに引き寄せてしまう人がいます
健康を崩してしまったり、事業で失敗したり、学業で成果を得られなかったり、友達や恋人と上手くいかなかったり
いろいろな出来事にあいますが、実は、自分でも知らずに引き寄せてしまっていることがあります
そうした不幸を引き寄せてしまう理由として、ネガティブな言葉を使ったり、ネガティブな考えをしていたことが挙げられるでしょう
自分はダメなんだとか、うまくいかないのではないかという不安や悩みの内にあると、実際にそうした出来事を引き寄せてしまうことがあります
そうした話はおそらく他でも聞いたことがあるでしょう
ではなぜ、ネガティブな言葉や思考を出してしまうのでしょうか?
ネガティブを発してしまう原因とは何でしょうか?
それは、愛の足りなさを感じたときに、人は他人からの愛を得ようとして、ネガティブな思いにおちいって、不幸を引き寄せていきます
子供が親の関心を引くために、熱を出して寝込むように、大人になった私たちも、周りからの愛をえたいために、体調不良や、様々な不具合を引き起こします
不幸を引き寄せてしまっている原因には、実は、不幸になることで愛を得ようとする思いが根底にあるのです
不幸を呼ぶもう一つのスピリチュアルな原因 ”自我・エゴ”
前回は愛の不在や足りなさを感じて、自ら不幸を引き寄せてしまう話をしました
不幸を引き寄せてしまうもうひとつの理由として、自我の防御があります
自我は自らを守ろうとして、固い甲羅を幾重にも着重ねようとします
そうした覆った甲羅によて、自分自身が苦しくなっていくことがあります
人は様々な言い訳をして生きているでしょう
その言い訳は、自分を守ろうとする甲羅であるとともに、自分を苦しめる元にもなっていきます
たとえば、家庭環境が悪かったから、自分の望むような先に進めなかっただとか、述べているのは、その後の努力を怠る言い訳になって、結局は、自分を不遇な境地におとしめてしまいます
自分を守ろうとする働きであるはずが、自分自身を苦しめていくのです
自ら病気を作り出すこともあります
体調が悪いため、出来ないのだという言い訳を作り出すために、病気を生み出すこともあるのです
愛の不足から不幸を引き寄せてしまう場合のスピリチュアルな対処法
不幸を引き寄せる原因として、愛の不足を感じる事と、自我の働きによる事をあげました
それでは、どうやったら抜け出していけるでしょうか?
ひとつには、愛の不足を感じているときには、自分が大いなる愛に生かされていることを感じる事
太陽が適度な距離にあって、一定の温度で地球を暖めてくれていることも、地球が自転し、朝と夜が適度にあることも、人間が宇宙に生かされていることを示しています
人が生きられるのは、奇跡的に適した環境が整えられているからで、それは偶然ではなく、人を生かす愛の思いから宇宙は成り立っているのです
そうした目に見えぬ宇宙の生かそうとする愛のエネルギーがあって、わたしたちは生かされていることを自覚することです
そして、苦難の時にも、たえず私たちのそばにいて、共に苦しみ、支えて生きる見えない霊存在がいることも知るべきでしょう
守護霊とも呼ばれる魂の兄弟たちは、地上に生まれてきた私たちを、陰ながら見守っています
そのように目に見えぬ、宇宙の存在や、守護霊の愛があり、地上に在る、家族や多くの人々の活動によって、私たちは生かされています
そうした今まで気づかずにいた愛に包まれていたことを思い出し、感謝することです
愛を感じて、感謝の思いが湧いてきたら、愛の不足による不幸の引き寄せは減っていくでしょう
自我による不幸へのスピリチュアルな対処法
前回は不幸を引き寄せる原因として、愛の不足を感じているときへの対処法として、自分が実は、深い愛に生かされていることを感じて感謝することを述べました
自我の働きによる、もうひとうつの不幸を引き寄せてしまう原因について、どうしたらよいか述べてみます
ひとつには、自我の働きを抑えていって、波立つ湖面が平な鏡面のごとくなっていくように、静かな心を取り戻すことです
これには旧来の仏教の思想が参考になります
仏教は、人間の不幸の原因が自我の働きにあるとし、それを修行によって消していこうとするものだったといえます
仏教の教えの旗印として、三法印というものがあります
それは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つを言い、この三つが仏教である印ということです
諸行無常というのは、この世にあるすべての物は移ろい行くものであり、とどまって置けるものはないと言う意味です
私たちの肉体は、ずっと若さを保っていられず、いつかは老いて病を生みます
そして愛するものとも必ず別れの時はきますし、愛着のある家や土地や、持ち物もいずれ手放す時が来ます
この世で手に入れた、地位や名誉も、お金も、いつしか手放す時が来るのです
そのように、この世は絶えず変化し、移ろい行く世の中なので、執着するのは、苦しみの元となっていきます
それゆえ、仏教では執着を断てと教えられます
つぎに諸法無我とは、すべてのものに自我というものは実は存在しないということを意味します
すべての存在は他との繋がりによって生きています
自分だけで存在している者は無く、他との縁の内に成り立っているのです
たとえば自分の身体だけみても、肉体が私だと思い込んでいるかも知れませんが、肉体は外部の存在である食べ物を取り入れて成り立っています
そして数年もしないうちに、元の肉体は、すべて別な物質に入れ替わっているのです
自分以外の物と思っていた食べ物という物質を取り込んで、いつしか肉体はその食べ物によて取り入れた外部の物質に入れ替わっているのです
私たちは普段気づかなくとも、自分だと思っていた肉体は、昔の物はすっかり無くなっていて、別な物質へと変わっていっているのです
そのように、普段から当たり前のように自分だと思っていた肉体も、外部と切り離されるものではなく、自と他は分かれられずに存在しています
そして涅槃寂静とは、我あると思う心を滅し、我欲や執着から離れた、静寂な境地を言います
波風一つ立たない、湖面のような境地です
このように、仏教の思想を取り入れると、自我の働きから来る不幸を、取り除いていく事が出来ます
この世のものはすべてうつろいゆく物であるから執着せず、自我というものは本当は無くて、他との関係の中で生かされている。我欲というのは間違いなのだと悟ることです
愛を与えることで返ってくるもの スピリチュアルな法則
前回は、自我が不幸を引き寄せてしまい、それを解消するために、仏教的な思想を取り入れることをお話ししました
今回は、もう一つの方法として、その反対の愛の思いによって、自我を統御していく方法があることを述べてみたいと思います
自我は自己中心的で、一生懸命に自分の得になることを求め、人から奪うことを考えます
それは親の愛情を自分に向けようとしたり、異性の愛情をえようとしたり、人より多くお金などの取り分を求めたりです
そうした自我の発する我欲は、人から奪おうとするもので、人に何かを与えんとする愛の思想と対極にあります
仏教の説話にこんな話があります
餓鬼道という我欲の強い亡者が落ちるとされる世界があります
そこでは一メートルもあるような、長い箸が手渡され、餓えた亡者の前に、豪華な食事が置かれます
手渡された長い箸を使ってでしか、食事をすることは出来ないというルールがあります
お腹が空いてたまらない、餓鬼の亡者は、その長い箸で一生懸命に目の前の食事を食べようとするのですが、長い箸のため、自分の口元まで運ぶことができません
目の前には豪華な食事が並んでいるにもかかわらず、餓鬼道の亡者はそれが食べられないという苦痛が続くのです
ほんとうは、その長い箸を使って、周りの者たちの口元に食べ物を運び、食べさせてあげれば、お互いに食べることができて、餓鬼道から抜け出せるのです
我欲に凝り固まって、自分のことしか考えられない亡者には、他人にしてあげることに気づかず、自分が自分がと、思っているため、いつまでたっても苦しみから抜け出せないのです
この説話のとおりに、この世においても、自分の我欲によって苦しめられることがあって、それを救うには、他人へと愛情を向けることで抜け出すことができるようになります
苦しんでいる人の中には、何とか抜け出そうとして、人のことなど気にしておれないという心境になてしまうでしょうが、そこを何とかとどまって、ふと周りにいる同じく苦しんでいる人たちに目を向けることで、変化の兆しを得られるようになります
人に愛を与えることによって、あなた自身が与えられるようになり、豊かな者へと変わっていくでしょう
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