ひとつには因果の理法とか原因結果の法則、因果応報と言われる法則があって、人にした行為は廻りまわって自分に返ってくるとされています
悪い行為をすれば、いずれは自分へとその悪行の報いが返ってくるとする説です
多くは仏教で言われていて、因果応報は仏教では主要なテーマとなっています
普通は世間を見ると悪い人が得をして、善い人が損をする世の中に見えますが、この世だけでなく、来世や未来世まで見ていると、因果の理法は適応されるといえます
この世でわがままいっぱい自分勝手に生きて、人に迷惑ばかりかけていた人は、あの世に帰ってから厳しい世界で修行しなければならなくなったりいたします
あるいは次に生まれて来たときには、人から世話をしてもらえずに生きなくてはならない環境に生まれ合わせるかもしれません
そのように、この世限りで見れば因果応報には見えないかもしれませんが、もっと長い転生の期間を見ていくと因果は完結されることとなります
この因果の理法に応じて、悪いことをすれば相応のバチが当たると考えることもあるでしょう
これが一つで、もう一つべつに考えられるとすれば、神社や仏閣などの神聖な場所では、そこを守っている霊的存在がいますので、不届き者が迷惑な行為をしたりすると、そうした霊存在に怒られて、災難がおこる場合があります
霊域にはたとえば生前にこその神社・仏閣を守られていた方や、大切に思われていた方がいらっしゃいます
そうしたゆかりのある霊人からお叱りを受ける事があるでしょう
そうしたことを罰が当たると表現していたこともあるのでしょう
神様や仏様が直接罰するということは無いかと思いますが、眷族であるとか、縁のある霊存在が怒ることはあります
このように二つの理由でバチが当たると言われることがあるように思います
5 件のコメント:
自分は罰で辛い仕事に落とされました。罪を犯して直ぐにです。ですがこの原因になった相手は身体を一次悪くしましたが悠々と生活しています。
現職場においても何人もの人にパワハラをしている人がおり、その被害にあっています。不条理だと思いましたが、本日のお話で納得出来ました。ありがとうございます。
アンケートで、バチって本当に当たるのかを質問した者です。回答ありがとうございました!小さい頃からおばあちゃんによくバチが当たるとしつけられてきたので、自然に人に迷惑をかけることはしないように、それがあたりまえのこととして育ってきました。でも人間なので、無意識に迷惑をかけてしまっていたり、無神経だったなと反省する日も多々あります。あまりでかいバチに当たらないように生きていきたいです。
こんばんは
時間はずれるかもしれませんがいずれ何らかの形で為した行為は自らに帰っていくでしょう
こんばんは
最近はバチが当たると教わることも少ないでしょうね
あなたのおばあちゃんのように躾けられていたら人の迷惑を考える人が増えていたでしょうね
神様の創られた法則の1つに「自分がしたことが自分に返ってくる(自分が蒔いた種は自分で刈り取ること)」というものがあります。
よって、良いことをすれば良いことが返ってきて、悪いことをすれば悪いことが返ってきます。
ただこれだけのシンプルな法則なので、悪いことをすればそれが罰(バチ)のように返ってくるだけです。
そしてまた、良いことをしたら同じように良いことが返ってくるのですが、ここには注意すべきポイントがあります。
それは、「良いことをしたら良いことが返ってくるらしい。良いことが欲しいから、何か良いことしてみよう」というのは、良いこと(良い結果)を期待した、つまりは下心のある動機となります。
すると、良いことをしてもその下心が良いことを消してしまうので、良いことが返ってくることが少なくなるのです。
つまり、下心や不純な動機でもって良いことをすると、良いことは返ってこないのです。
純粋に、下心なく、見返りを期待しないで、ただただこの人のために!この仕事のために!という気持ちで良いことをしたときのみ、良いことが返ってくるのです。
なぜ、こんなめんどくさい?決まりになっているのか…それは、神様が、下心や不純な動機などのエゴを、私たち魂にはいっさい付けておられないからです。
それなのに、勝手にエゴを付けだした私たちは、神様の素晴らしい法則から外れてしまうような、本当にもったいない行動ばかりをするようになってしまったのです。
ここでもだから、エゴがどれだけ不要な・いらないものなのかをわかっていただけるかと思います。
だから、どうやってエゴを落とせばいいのかをひたすらブログでイエスさんに説明してもらっていますが、これからも頑張って書いていこうと思います。