人は生きているうちに、様々な方に迷惑をかけたり、傷つけてしまうことがあります
たいていの場合は、傷つけていることを自覚しなかったり、相手が悪いと責任転嫁したりして、自らの罪を自覚しないことの方が多いのではないでしょうか
人間にはお互いに自由意志が存在します
その自由意志と自由意志が衝突しあったときに、相手を傷つけてしまうことが起こります
人間がそのまま自らの自由のままに生きていたならば、世の中は傷つけあい、苦しめあう世の中となっていくでしょう
そのために、神様は人間の互いの自由の相克を克服させるために、悔い改め・反省を与えられたのだと思います
自らを振り返って、相手を傷つけてしまったことを悔い、間違った思いや行いを正していこうとすることが反省です
伝統的に仏教では八正道といって、八つの項目に照らして、自らを正していく方法が取られています
ですが、一般の人では、八つも項目があると、なかなか点検するのは難しくなるかもしれません
もっと端的に反省する項目を点検する方法として、身・口・意の三つを振り返ってみる方法があると思います
身・口・意を密教では三密とも呼びます
身とは体のことで、人間の行為を言います
自分の行為が人を傷つけてしまっていないか。過ちを犯していないかを点検します。
口は言葉のことで、言葉によって人を傷つけていないか、間違ったことを言っていないか、嘘をついていないか、などを点検していきます
最後の意は、心に浮ぶ思いのことです
思いのなかで、誤った思いを持っていないか、愚痴や不平不満・怒り・憎しみ・嫉妬・人を貶める思いや、裏切る想い等、ネガティブな思いを持っていないか反省します
このように、行為と言葉と思いを点検して、過ちを正して、罪を悔いて、神様に許しを請い、また傷つけてしまった人がいたら謝ることで、自らを正していきます
ひとは生きているうちに過ちを犯してしまう生き物です
その過ちを正していくために、人に与えられたのが悔い改め・反省でしょう
それは許しの秘蹟であり、人間関係を調和させる原理となります
「人を救いたい。」とは、こちらで触れられているような思いではなく、どちらかといえば、成し遂げようとする意志に近いものなのかなと思いました。
返信削除「人を救いたい。」その意思の奥にある「思い」次第で変わってくるのですね。純粋な「人を救いたい」にはおごりなどないのですね。
家族を護りたい、これもまた意思ですね。それの奥にあるものは、家族への愛だと思います。
少し曇りが晴れたような気がします。
有難うございます。