ブータンは親日国家としても知られ、国王が来日されたときは、綺麗な王妃と、国会演説が話題となりました
このブータンはチベット仏教を国教とする国で、世界一幸福な国家とも言われています
国民が平和を愛する善良な人々のたくさん存在するブータンですが、現在、領土の北部を中国軍によって侵略されています
その広さは約八千平方キロとされ、兵庫県と同等の広さだそうです
そこに住む人々が平和を望んでいたら争いは起こらないのなら、ブータンこそもっとも平和に暮らせる国家であるはずなのに、大きくなってきた中国の軍事力になすすべなく侵略されてしまっています
さらに遡って見ると、チベットも国民は非常に平和的で、信仰心厚く暮らしていました
そのチベットに中国の解放軍が、はじめは甘言をなして入ってきて、国を丸ごと侵略されて奪われてしまいました
そのチベットの現在に続く悲惨さは、調べれば直ぐにわかることです
ですので、平和な思いを持っていたら平和になるかといえばそうはいえません
相手が一方的に侵略や攻撃をしてきたら、いくら暴力はいやだと思っていても巻き込まれてしまいます
以下に「神との対話」という本で語られている言葉を紹介します
愛情ある態度をとるということは、必ずしも相手の好きにさせるということではない。子どもを持った両親はそのことをすぐに悟る。大人が大人に対する場合、国が国に対する場合には、そう早くは悟れない。
だが、横暴な独裁者を栄えさせてはいけないし、横暴はやめさせなくてはいけない。自分への愛がそれを要求する。
これが、あなたの「あるのは愛がすべてだとしたら、どうして人間は戦争を正当化できるのですか?」という問いへの答えである。
ときには、人間は真の人間らしさを表す偉大な宣言として、戦争を嫌悪する人間として戦争へいかなければならない。
ときには、本当の自分であるために、本当の自分を放棄しなければならない。すべてを放棄する覚悟をするまでは、すべてを手に入れることはできない、と教えた<マスター>たちがいる。
したがって、平和な人間としての自分を「まっとうする」ために、戦争に加わらない自分という考え方を放棄しなければならないかもしれない。歴史は人間にそんな決意を求めてきた。
同じことは、私的な関係についても言える。人生には、本当の自分では内面を示すことで、本当の自分を証明することを要求されることが何度かある。
何十年か生きていれば、それがわかってくる。ただし、観念的な若者にとっては、究極の矛盾と感じられるかもしれない。もっと成熟してから振り返れば、神聖な二分法に思われるだろう。
だからといって、人間関係で傷ついたら「仕返しせよ」というのではない(国家間の関係でも同じだ)。ただ、傷つけられても放っておくことが、あなた自身にとっても他者にとっても愛ある行為とは限らない、というのである。
こう考えれば、最高の愛があれば悪に対しても力ずくの対応をしない、という一部の平和主義者の主張は通らなくなるはずだ。
5 件のコメント:
神、宇宙は人間を国単位に分けて見ているのでしょうか。 日本だの中国だのっていうよりももっと上から俯瞰してみていると思っています。
私たち日本人にとっては正義でも、他国には他国なりの正義があって、それなのに神様はこちらの味方について、日本人は自分の正義のために戦争していいよ、って言っているのか・・・
日本がやられっぱなしがいいとは思いませんが、聖戦を美化するよりも、私はガンジーや隠れキリシタンで殉教していった人達を支持したいです。
来世はあると思っているので。
「正義」は人によって、国によって違うと本当に思っているのですか?
当然ですが「正義は正義。神の側にあるのが、正義。神の側にないものは、正義ではない。」のです。
神は、人によって、国によって違うのですか?
それこそ、国単位、民族単位、宗教単位でしかみれない人間の、了見の狭さが産む問題であって、カミサマの問題ではないのは仰るとおり。(ある宗派では、カミサマにも一部了見の狭いカミサマがいるという驚きの見解もありますが、それは置いときます…)
この世は、天国ではないので、宗教(考え)の違い、国の違い、民族の違いが争いの元になります。だからといって、争いがイケナイといってしまえば、訳のワカラン人程、横暴で、無茶をしますが、どうしますか?良い人達ほど先にヤラレテしまいますが…(お花畑で優雅に遊んでいる幸せな人達を妬み、お花畑を自分達のものにしたいと考える悪童が栄える世になることをカミサマが望まれるでしょうか?)
自分だけが正しくて、自分のことしか考えなくて、自分の頭でしか考えられない、了見の狭い人や国や宗派が、現に今在る(しかも、大半だったりして…それが人間というモノ…)のですから、そのワカラン人達(国、宗派)の考えが間違っていると気がついた大人(国、宗教)は、ヒドイ事が起こる前に、間違いを正す責任がある。 ということではないでしょうか?
正義のために、戦わないのは、卑怯者です。(そう言う意味では中国もアメリカもアラブもイスラエルも…みな戦っていると云うべきでしょう。)
先の戦争では、日本には「白人支配の時代を終わらせ、アジアの時代を創る」という大義と誇りがありましたが、今の日本は、「憲法9条」をノーベル賞に!という輩が出現する程、稀に見ぬトンチンカンな国になってしまいました。(戦後教育が間違った結果がコレです。)
戦前の日本の兵隊さんなら、チベットやブータンを中国から守る為に喜んで戦地におもむいたでしょう。(今だって自衛隊の隊員さん達は、覚悟の上で入隊しているのですよ。)
自衛隊員に心からの感謝もできず、戦うことに誇りも持てない国は、滅ぶしかないでしょう。(お望みどうり自衛隊員は戦いたくても戦えませんから。)
サッカーが弱いのも、日本が戦えないのも、国を愛する心が弱いせいかもしれませんね。
愛すればこそ、戦えるのです。人生は“愛の戦い”(知恵比べ?)だと知るべきです。愛が弱いと負けるのです。
日本人が、世界を平和にしたいと心の底から願うなら、強くあらねば!
武力戦争だけが戦争ではないのです。経済も、外交も、文化交流も…とおに中国(米・韓も?)の進軍は始まっていますが、日本人はサッカーを見てもわかるように、世界に対する認識が甘すぎるので、今の処やられっぱなしデス。
もしかして、世界を侮っているのではないでしょうか?
相手は必死なのですから、コチラも全力で戦うのが本当だと思います。
お花畑で遊ぶのは、あの世に還ってから、いくらでも出来ます。
つい又、長くなってしましました。スミマセン!
悪行に手を拱いている場合ではありません。
世界基準の話をしているのです。
世界的な平和を目指すという基準で、聖戦はあるのです。
非武装非暴力を貫けた信仰者ガンジー、隠れキリシタンは、国内における個人・信仰者・民族基準であります。
国家の基準を以って侵略して行く国があるとするならば、その行為は世界に混乱と不安感を巻き起こすものとなります。
世界的な基準で、平和・和平の意味を、よくよく考えてみて下さい。
戦争に、聖戦はあると思います。
神が、自由であり、愛であり、繁栄であるのであるならば、
粛清と強制収容所の国が、地球を侵食していくことを好ましく思うはずがありません。
ならば、心正しく、よい信仰を持ったものに対し、そうした勢力を押しとどめるよう指導するのではないか、そう思っています。
もし、心優しく、正しい信仰を持つものは、戦争を忌避するべきという思想が優先されるならば、地球は、独裁国家中国により支配され、意に染まぬものは虐殺されていく星となりましょう。
たとえ、何度この星に生まれ変わろうと、中国に支配されていれば、この星は、暗黒の星となるように思うのです。
かつてリンカーンが奴隷解放のために、同胞同士で血を流したように、何のために戦うのか、その大義しだいでは、聖戦は存在し、聖戦として戦ってでも守るべき価値もあると思うのです。
大戦は中戦に、中戦は小戦に、小戦は小競り合いに、小さくしていきたいものです。
そのためには、戦ってでも守る強い意志と研鑽、準備を怠らないことが必要でしょう。
戦争は経済力ですから、世界のトップクラスの経済大国としての日本の責任として、積極的に平和を守ることから、逃げれば、中国朝鮮がアジアアフリカを蝕んでいくのは、確実でしょう。
悲劇の大量生産体制に入ってしまうことを意味するのではありませんか。戦争を忌避する思いが小戦を大戦にしてしまうことになる、そのように思います。
愛ゆえに盾となり戦う。朝日新聞等が、日本を滅ぼし中国による支配を願うのでないならば、そうしたことも考えてくれることを祈ります。
私の過去世はもしかしたら、多くの転生は滅ぼされる側であったのかもしれません。だから、そう思うのかもしれません。
いろいろなご意見ありがとうございます
今回は個別の返信は控えまして、今日の記事で続きを書きました