人は他人から評価されたり、褒められたり、賞賛されることに喜びを感じます
人間は、他者からの愛を受けることで喜びを感じる生き物だといえます
生まれてより、自ら歩くことも喋ることもできない、幼い状態から、人間の生は始まり、誰かに育ててくれなければ生きていけない状態を経験いたします
自然界においては生まれてより直ぐに、自らの足で立って生きるものもおります
基本的に、高度な生命になるにしたがって、成長までの過程で、親などからの庇護を受けて育つ期間が長くなるといえましょう
鳥の雛は、巣の中で大きく口を開いて、親鳥からの餌を受け取って生き、哺乳類は親の乳を糧として成長します
人間にいたっては、一人前に成長するのに十数年の期間を要し、文明国ほど長じる傾向があって、二十年近くかかることがあります
これだけの期間にわたって愛を受け続けることで、人間は巣立っていくといえましょう
膨大な愛を受けて生きてこられた人間は、そのありがたさを忘れて、感謝も忘れ、さらなる愛を得ようと雛のように鳴いているようにも見えます
もっと褒められたいとか、愛されたいとか、理解されることを望みます
本来であれば、成人になることにおいて、人は与えられる側から、与える側へと移らなくてはいけません
いままで与えられてきたものを、今度は与える側に立って、人々へと還元していく時期に立つのです
そのことを忘れて、あるいは自覚できずに、愛の不足を嘆き、不満や足らざるものばかり見つめるようになります
今まで与えられ、現在も支えられて生きていることを自覚できずに、まだまだ足りないと叫び嘆き続けています
自らが求めてきたもの、求めていた愛を、次は人へと返していかなくてはなりません
エジプトの古代より伝わる死者の書には、亡くなった人は、その心臓を秤に乗せられて重さを量るという言い伝えがあります
罪によって重くなったものは秤が傾き、その魂は下の世界へと送られ、罪の少ない軽い魂はオシリス神の住む楽園へと向かうといいます
秤というのは例えですが、その意味するところは、地上に生まれてより、愛を与えられた量と、自らが与えていった量の、その差を量る事を意味します
人はどれだけの愛を受け、そしてどれだけの愛を世の中に返して行ったか、その差を量られるのです
人間がこの世に降り立つ意味は、生まれてより世の中に愛を普及し、増やしていくことを使命とします
解説
上記は私がインスピレーションを受けて書いた記事です
少し補足を書きたいと思います
まず文中に出てきています死者の書について述べます
古代エジプトに伝わる『死者の書』には、死者の霊魂が肉体を離れてから死後の楽園アアルに入るまでの過程・道しるべを描いています
『死者の書』の本来の書名は『Rw Nw Prt M Hrw』で、『ル・ヌ・ペレト・エム・ヘル』と読みます
これは直訳すると「日の下に出現するための書」という意味とされ、エジプト学者、カール・リヒャルト・レプシウスがパピルス文書を "Ägyptisches Totenbuch"(『エジプト人の死者の書』)と名付けて出版したことで一般には「死者の書」と呼ばれるようになっています
『死者の書』には、死後に冥界へ降る魂に、その後の世界や受けるべき裁きについてや、死者の裁判官オシリスに会った時に語るべきことなどが記されています
心臓(イブ)を天秤にかける死者の裁きは有名です
真理の女神マアトの羽根(真実の羽根)と死んだ者の心臓がそれぞれ秤の両端に乗っており、どちらが重いかをはかられます
もし魂が罪で重いと真実の羽根より心臓が重くなり、秤は傾きます
秤の目盛りを調べるのはアヌビス神で、死者が正直者であればその魂はオシリスの治める死後の楽園アアルへ赴き、嘘偽りばかりの者は魂を喰らう幻獣アメミットに喰われ二度と転生できなくなる、とされています
『死者の書』自体には愛によってはかられるとは書かれていませんが、真実はそれに近く、あなたの愛の量によって、死後の行き先が変わると言えます
もしも人に対して多くの愛を与えてきた人であるならば、死後に愛の溢れる世界に帰られます
人に対して奪うばかりの人生を送ってしまった場合には、必要なものが足りず、互いに奪い合う世界に帰られるでしょう
現在では死後の世界と言うのは夢物語のように思われがちですが、実際に存在しており、古くから伝えられているように、光輝く世界と、暗く貧しい世界とに分かれています
それらは人の心の持ち方、心境によって分かれる世界なのです
話しは変わりますが古代エジプトでは、オリオンの三ツ星をサフと呼び、オシリス神と同一視していました
なぜ古代において星々を神聖視していたかと言うと、かつて別な星より降り立った者たちがいて、彼らは自分たちの来た場所を、空高く示し、星座のある一部を示したからです
古代のエジプトにおいても、オリオン座を神聖視していたのは、その方面から来た宇宙人の存在がいて、彼らを示す星として重要視するようになったのです
この地球に私たち人類が住んでいるように、遠い星々の世界にも、人間に似た知的生命体が存在して、彼らは地球に訪れている事実があります
まだ正式に姿を現していませんが、いずれは人類と正式にコンタクトをとる日も近いでしょう
2 件のコメント:
人間の究極の悦びは、愛を与えるところにあるのだと感じます (^^)
ただ、それも一歩間違うと自己満足や傲り、度を越したものになりかねないのかなぁ…と難しくも感じます。。
親子などの関係では、子が親にいくら与え返しても足りないほどですが、例えば、自分の子どもに対してだとすると、愛は様々な形をとり、見守る、考える力や感じる心を育む、等々生きていくうえでの厳しさも愛なわけで、それを与える側に立つということは共に成長し自分自身を深く見つめなくてはならないですよね。子は親の鏡とはよくいいますし、与えているようで、与えられていることの方が多いかもしれませんよね。
親って、スゴイなぁ…偉大ですね!
本題から外れてしまってますが、^^; 純粋な心で相手のためを想ってすることは、
必ず届くと思いますし、まわりまわって、自分の学びや気づきのチャンスに繋がって
いくのだろうとなぁと思います★
槇原敬之さんの『僕が一番欲しかったもの』という曲がありますが、なるほどな~🌺と共感できる歌詞です(*^-^*)
上手く書けませんが、我欲を押し通すことなく、相手の想いや状況を優先する。それを相手に悟らせない。
それが虚しくも究極の愛なのかとも感じました(^_-)-☆
いろいろな愛のレベルがあります
家族愛というのも最初に出てくる課題で、ここを勉強している魂が大多数でもあるでしょう
キリストや仏陀などは人類愛のレベルにある魂だと思います
なので人類的な思想の根源となられたのでしょう
槙原さんの曲は存じ上げなかったです
透明な愛を目指すべきでしょうね