2020年1月22日水曜日

一瞬で幸せになる魔法



山のあなた

カール・ブッセ 上田敏訳



山のあなたの空遠く
「幸」(さいはひ)住むと人のいふ。
噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」(さいはひ)住むと人のいふ。


有名な「山のあなた」と言う詩です。この詩では幸いは山のあなた(彼方)にあって、そこへたどり着かなければ幸いを手に入れられないと言っています

幸いというのはおいそれと手に入るものではなく、たくさんの苦労と努力を積んでもなかなかたどり着けないモノだということですね

はたして、幸せはそんな彼方にあるのでしょうか

人間が幾転生を繰り返し、生まれ変わり、死に変わっておりますが、輪廻の終焉にしか幸せが無いのなら、人間とは永劫の間、苦しまねばならない存在として作られたのでしょうか

アルベール・カミュは「シーシュポスの神話」という作品で、そうした存在として人間を論じました



シーシュポスは神々の怒りをかってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けます

彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのですが、山頂に運び終えた瞬間に、岩はまた麓へと転がり落ちてしまう

こうしてシーシュポスは永劫に無意味な作業を繰り返さないといけない罰を受けます

カミュは人間もこのシーシュポスと同じで、意味も無く生れ落ちた存在である人間が、その無意味さを背負いながらそれでもなお生きる姿を論じました

もう一人の作家の著書を紹介します

メーテルリンク作の「幸せの青い鳥」はほとんどの方がご存知でしょう


2人兄妹のチルチルとミチルは、過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行きます

さまざまな世界を探し回る二人ですが、いくら探しても見つからず、あきらめて自宅へと帰ると、自分たちの最も手近なところにあった鳥籠の中に青い鳥はいたと言う物語です

チルチルとミチルが訪れる様々な国は、あの世の世界を文学的に表現したように感じられるので、作者のメーテルリンクは霊能力者であったか、深いインスピレーションを受けて書いたのでしょう

この物語で青い鳥とは幸せを象徴しており、人は一生懸命に外の世界に幸いを捜し歩くのですが、実は幸いはもっとも身近にあることを意味しています

私たちは、お金持ちになったら幸せになるとか、出世したら、あるいは、名声を得たり、人から賞賛を得るようになったら、幸せが手に入ると考えがちです

ですが、今現在、いまここに置かれている環境、取り巻く人の中で幸いを見出せなければ、いくら捜し求めても手に入りません

人から羨ましがられるような生活にあこがれるものですが、そうした人目を頼りとする幸せは、いつか色あせて消えていきます

他人を物差しや尺度にするのではなく、自分自身の目で世界を見直さなければなりません

今ここにある幸せに気づくことこそ、一瞬にしてしあわせを手に入れる魔法です

関連記事



  1. すばらしいです。。

    返信削除
  2. こんにちは
    ご訪問いただきありがとうございます

    返信削除
  3. 洪様 いつもBlog楽しみに拝見しております

    母が亡くなった日付に、大好きな青い鳥のお話しを今頃見つけました

    母からのメッセージかもしれませんね

    返信削除
  4. うーん、ため息がでるほど素晴らしいお話をありがとうです。
    私のこのささやかな幸せに感謝して、優しい気持ちで生きていけたらもっと幸せになるはずと信じられます。

    返信削除
  5. 幸せを感じるのも束の間で、また新たな幸せを望んでしまいます。
    欲深いのか、これも成長と言えるのか、、

    返信削除
  6. この詩はとても好きな詩です。余韻があってとても深い感じがしますね。
    幸福論に興味があって、いろいろ読んでみましたが、結局自分の心が決めるもののようです。
    目標ラインを上げすぎない、人と比較しないということで、結構幸せになれる人も多いと思います。
    だからと言って努力しないというのではありませんが。

    返信削除
  7. 私たちは神様から愛され、素晴らしいものを全て与えられているので、ここに生きていることがつまり幸せなのだという証拠になるのですが、エゴのある私たちは傲慢にもその幸せが当たり前になりきっているので、今の自分がどれだけ満たされていて幸せなのか、全く理解できていません。

    だから違う言い方をすれば、幸せとは失って初めて見えてくるもの、とも言えます。

    たとえば今夜、いきなり目が見えなくなったら…昼間まで当たり前のように目が見えていたことが、どれだけ素晴らしい奇跡だったのかに気付きます。

    同じように、朝起きたら体の半分が麻痺して全く動かなくなっていたら…昨日まで当たり前に動けていたことが、どんなに有難いことだったかに気付くはずです。

    今のはあくまでも一例ですが、そう考えてみると、思い通りに考えたり話したり見たり食べたり味わったりきちんと排泄したりできることにすら、奇跡的な幸せが感じられてくるのではないでしょうか。

    そしてまた、いつも頑張ってくれている60兆個といわれる身体中の細胞たちへの感謝の気持ちも湧いてくるのでは?と思います。

    そんな幸せにも気付かず身体に感謝もせず、何もいいことないわー!って不平不満で生活する私たちが、いかにエゴに騙されて傲慢な状態で生きているのかが見えてくると思います。

    エゴを信じる限り、エゴから離れられません。
    神様を信じて感謝で生きれば、エゴから離れていけます。

    どちらの人生を送るのか…

    目や、手や、足などを失ってから気付くことに、ならないようにしたいものです…!

    返信削除

今後のコメントは X(旧Twitter)にてお待ちしております。