古代奄美・琉球大島とムー文明
ご要望もありましたので、奄美と沖縄が繋がっていた時代のお話しをします
以下は私が感じたままを書いた物証のない話しです
かつて一万年以上前になるかと思いますが、奄美から沖縄諸島までの島々が繋がった大きな島がありました
九州の南の沖から台湾方面に伸びる、帯状の細長い島です
そうした大きな島で繋がっていた印しとして、奄美諸島にも沖縄諸島にも毒蛇のハブが棲息しています
かつては地続きであったのでハブも広がって棲息していました
そして隆起珊瑚でできたような海抜の低い島には、ハブは住んでいません
これらの低い島は、一度海没したためハブも死滅したからです
かなりの部分が没した後に、揺り戻しのように陸地が少し上がったため、一度海没した島も浮上したのです
琉球大学の木村教授などは、かつての琉球はムーだったと述べています
与那国や北谷沖の海底遺跡が、かつて沖縄に文明の栄えていた証拠として考えたわけですね
ですがムーそのものではなく、ムーからの人が一部住み着いた出先機関のあった地のようです
現代でも先進国がレアメタル等を海外から求めるように、おもに装飾品になる材料を求めて、古代奄美・琉球大島に一部おりました
大きな塀に囲まれた町に住んでいて、元からその地に住む者も外に住んでいます
ムーから来る者は地元の人が気にもとめず捨てていたような珊瑚や貝殻を、食糧と交換してくれるため喜んで交流していました
そしてわずかですが文明の道具なども地元に流れてきます
そうしたかつての記憶が、ニライカナイの信仰へと繋がっているのかもしれません
このように、はじめは来る者も少なく緩やかな交流でした
ですがしばらくしてから、ムーから大きな船団が古代大島にたどり着くことがありました
ムーが大地震により海に没してしまい、そこから一部逃れた者があったようです
そのうちのさらに一部が、この古代奄美琉球大島にたどり着いたようです
ムーからの避難し移住してきた者たちによって、大島は本格的に文明が発展してきました
船を利用した北端の先にある日本列島や、南端から中国南部との交易などもしていました
文明として文字も伝わります
文字と言うと皆さんは紙や壁に書く記号文字しか思い浮かばないかも知れませんが、それとは違った文字というのもありました
それは、紐に瘤をつくって、文字や数字のかわりにするものです
紐にある瘤の数や並びによって意味のある文字として利用していました
紐文字はおもに商人のあいだで使われていた文字です
例えば、店先に瘤のついた紐をぶら下げて、それを見たら何をいくらで売っているか一目でわかります
紐文字はそうした商売や帳簿として利用していたわけですが、現代でも使われている記号文字も政治や宗教では使われていました
身分の高い者はそうした抽象的な文字を読み書きしていたのですが、商売をする人などは紐文字を利用して生活していたのですね
記号文字は一種の神秘的な意味合いがあるように思われていました
今で言えば呪術文字のように、何か霊的な作用のあるものと考えられていたため、そうした宗教者などが使い、一般には利用はされていなかったと言えます
勾玉は現代では神社などで祭られたりしているのかもしれませんが、本来は首飾りでもあり、貨幣にもなるものでした
店先で紐文字を見たら、首飾りの勾玉を外して、その値段分を渡して商品と取り替えたわけです
今のお金に代わるもので、なおかつ装飾にも使われる物であったのですが、それが畏敬されていつしか模倣の勾玉が奉られるようになったのでしょう
また潮満つの玉・潮干るの玉の伝承があります
これは本来は物の重さを変化させられるものでした
例えば巨大な岩を軽くして容易に持ち運びができるようにします
一種の重力を操作できるものであったのでしょう
古代の日本でも巨石文化があったようですが、そうしたものが利用されていたのかもしれません
本来は岩を動かすなど建築に使われていたものですけど、それがいつしか海の波を満ちたり干したりに利用されて、潮満つの玉・潮干るの玉の伝承となったようです
この文明では、霊的な能力のあるものが優れた者とされ、指導的な地位についていました
ですので女性は霊的な能力が男性に比べて比較的に高い方が多いですから、この時代は女性でも指導的な立場につくことが多かったと言えます
いまの奄美や沖縄諸島は、かつてあった大島の標高の高い地域が残ったもので、人々の住んでいた海岸沿いや川沿いの地域は、海底へと没してしまいました
今から一万年ほどまえのことです
与那国や北谷沖の海底遺跡は本当に人工的なものかはわかりませんが、奄美から琉球諸島につらなる海底には、古代の遺跡が遺されているものと思います
古代文明・沖縄の話し 琉球幻想奇憚
先日は「運玉森の物語・青色人」という話しを掲載しました
こちらには続きがあります
南西から戦さの強い赤色人の部族が侵略してきて、青色人の部族に「滅ぼされたくなければ服従しろ」と誓わせ、貢ぎ物を差し出すように迫られます
おとなく争いの嫌いな人の多い青色人たちは、言われた通りにします
すると、調子に乗った赤色人らは、青色人の大切な漁場を我が物顔で荒らしてくるのです
やがては滅ぼされるのではないかと感じた青色人は、戦うべきだという人と、争っても赤色人らには勝てないので、服従を誓って、隷属するしか生き残れないという意見に分かれます
お互いに対立して、結論が出ない状態となり、しかも内部で分裂しているため、ますます赤色人に付け入られる隙をつくってしまいます
そこへニイルピト(二色人)と呼ばれ、青色人と他の部族とのハーフの青年があらわれて、一つの案を授けます
それは文化的に発達した黄色人と同盟し、赤色人の侵略を防ぐという方法です
その案により、青色人は赤色人と争うこともなく、隷属させられることもなくなりました
ざっとストーリーを述べるとこのような感じになります
琉球の古代に上記に似たようなことがあったのではないかと思いました
これはあくまで個人的に感じとったことですが
一万年以上前には、琉球は、与那国から奄美辺りまで含めて、弓形の南北に伸びる、現在よりも大きな島であったのではないか
そこに人々が住み、文化が発展したものがあったのではと感じます
ニイルピト(二色人)は、現在では現れて若者に難問をといかけるとされていますけど、実は古代において外交の難問を解いて、人々から慕われた者が元になっているように思います
青色人というのは、入れ墨をした者たちで、古代の沖縄の今は海没した地域に住む者たちで、沖縄の先祖にあたる人たちだったと思います
以前の沖縄にも入れ墨の文化があり、私の曾祖母には手に入れ墨をしていました
赤色人というのは大陸系の人達ですね
島が隆起していたので、大陸から進んできた者たちです
そして黄色人というのが実はムー大陸と呼ばれる、今はなき大陸に住む者たちであり、古代の沖縄の陸地の北部にも、駐在というか、一部住んでいたように思います
先日斎場御嶽に行ったときに、勾玉が出土したとして飾られていましたけど、実は、そのムーから来た民は、その勾玉を貨幣として使っていたようなのです
勾玉は今では首飾りなどの装飾品としか理解されていませんけど、かつては装飾品でもあり、なおかつ貨幣としての機能も持っていたようです
ですからムーの民は首飾りを見たら、お金持ちかわかったわけですね
何か欲しくなったら首飾りから勾玉を取り出して対価分を渡すということをしていました
そうしたかつてのムーの民との交流が活発となり古代琉球も文化的に栄えた時代がありました
ですが、今から一万年くらい前に、島の陥没があって、一部の高い所を残して、人々は海岸地帯に多く住んでいましたから、海没し現在の沖縄諸島の姿となりました
ですから古代琉球=ムー大陸という説もありますけど、ムーそのものではなくて、ムーの文化が流れてきて、発達した時代があったということではないでしょうか
ムー大陸と沖縄の起源
以前の記事で、沖縄はかつて細長い帯状の陸地であり、ムーの出先機関があったところと書きました
沖縄の起源はムーにあって、そこから日本列島へ文化の伝承があったと考えたわけです
また、魏志倭人伝の記述はかつての沖縄を指しているという指摘もしました
なかには、沖縄の人々の起源として中国からの流れがあったとする人もいます
ですが、中国から流れてきた人々が沖縄の文化の起源であるなら、沖縄の方言に中国の影響があるはずです
例えば南米の国では、スペイン語やポルトガル語が流通している地域がありますが、それはスペインやポルトガルなどがかつて南米の地域を侵略した過去があるからです
ヨーロッパから流れてきた人の数は少なかったでしょうが、支配階級にある人々の文化や言語が強く影響します
もし、沖縄に中国から流れてきた人々が文化の伝承者なら、沖縄方言にはからなず中国語の影響が色濃く残っているはずなんです
ですが、沖縄の方言は古代の日本語と同一のものなのです
沖縄の方言を研究することで、古代の日本語はどのうだったか調べたりされることがあるわけです
では、どれくらい過去に日本語と分かれたかを調べると、一説には二~三世紀ころだったと言われています
ちょうど邪馬台国があったとされる頃ですね
邪馬台国の後に日本についての中国での記述が無くなる空白の時期がくるわけですが、沖縄と日本列島の文化交流が途絶えたと思われる時期と一致します
おそらく、邪馬台国は沖縄奄美と密接な関係にあったのが、戦乱により邪馬台国が滅ぼされた時に、沖縄奄美とも交流が途絶えたということでしょう
邪馬台国の女王卑弥呼には侍女が千人もいたことになっています、これは数が多過ぎるのでいくらか水増しされているかも知れませんが、多数の女性が周りにいまのは事実でしょう
侍女となっていますが、本当は神に仕える巫女であったと思います
こうした巫女が選ばれて邪馬台国にきたわけですが、そこで沖縄奄美の役割があったように思います
たくさんの巫女が沖縄奄美からきていたのではないかと感じられます
あるいは修行場のようなところになっていたのかも知れません
そういうわけで、沖縄は日本の創成期に関わっていたと思われますし、その起源はムーにあったと思います
6 件のコメント:
続きのお話ありがとうございます。
先日の青色人は心優しいけれど文化や科学の発展の方はどうなんだろうと思っていました。
ムーの人たちが入ってきて、文化の発展に役立ってかつ、平和を保っていけたのですね。
また斎場御嶽の勾玉のお話、興味深く思っています。
大変、興味深いお話です。世界中に伝わる大洪水伝説が約1万2千年前ですから、それより以前は海面の水位が低く、琉球がもっと大きな島だったということは十分あり得ると思います。
世界五色人と言われていますが、大和民族は、五色人の中に含まれず金色人と言われていたのは、何故でしょうか?
釣り針のニュースを見て、とても驚きました。
こちらのブログを拝見するようになって、古代の歴史にも興味が湧いてきました。
邪馬台国の謎についても興味があります。
機会があれば取り上げて頂ければと思います。
なんだか、今のおきなわ、日本のおかれている状態と似ているような気がしてしまいます。ムー大陸的な存在がない現在、この先どうなることやら。
九州と沖縄。縁が深いはずなのに近づけないんです。子供の頃四国の一番九州よりに住んでいて、祖父達と九州に旅行で行くはずが、出発朝からそれまでに全く無かった大量の鼻血を出して自分と母だけお留守番になったのは今でも意味があるのかなと思います。またお話して下さいね。